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手塚治虫も小松左京もさいとう・たかをも少女漫画の描き手たちも、明確に「映画」をわが手で作ろうとしていた。物語の完全形、理想としての映画のイメージはテレビ世代の僕にもあるのだが、これは今も共有されているのだろうか。 pic.x.com/V0EYdFTCLv

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芦辺 拓@ashibetaku

みんなのコメント

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チェンソーマンの藤本タツキや進撃の巨人の諫山創は映画のイメージを共有していますね。

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河島光広『ピリーパック』と先行作「太平洋魔城」(両方とも別冊付録)にも、作品を一編の映画として読者に提供しようという姿勢が感じられる。映画である限り物語はゴージャスで巧妙でカタルシスがあり、ちゃんと完結しなければならないという常識は一部ジャンルですでに崩れかけている気がするのだが pic.x.com/v6HA1ZmuXo

芦辺 拓@ashibetaku

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いまは映画が物語表現の王者みたいなイメージはありませんし、共有されていないと思います。その必要もないですしね。 かつても映画が表現の理想とは思っていなかった人が少なからずいたと思います。70年代などは漫画独自の表現を追求する動きもありました。

Расэндзин@『スターリングラードの凶賊』2巻発売中!@RASENJIN

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物語性に必須の「普遍性」「社会性」が欠落している現代では、「欲求自我の共有性」だけを目的として、アニメが映画を抜いている印象があります。

市川大賀@ArbUrtla

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