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私的天智天皇即位⑦ 百済救援軍に蘇我、尾張氏が参陣してないことは重要。 飛鳥を三王家(蘇我、物部、尾張氏)が抑えたことの傍証であり、これを日本書紀は絶対記述できない。 よって、飛鳥時代に四大寺院の一つとして重要視された川原寺創建についてすらも口を閉ざし、歴史の闇に葬った、と推考…。 pic.twitter.com/hiTZrklvZV
私的天智天皇即位⑥ 通説は、天智天皇が川原寺を建立した、と言うが、川原寺との関係の希薄さから、大海人皇子が建立した、と考える。 この時期、飛鳥は中央集権国家推進派の支配下にあった。 激動の時代での政治的空白を埋めるべく、大海人皇子は三王家賛同の下、中宮天皇として即位した、と推察…。 pic.twitter.com/39HKE2OKvz
私的天智天皇即位⑤ 尚、斉明天皇の殯が川原寺で行われたのは、物部氏の意向が反映された、と考える。 倭国最大勢力の物部氏には、如何に独裁者の中大兄皇子でも逆らえない。まして、百済救援を成すには、物部氏の協力は最低条件である。 故に、物部氏の意を汲み、斉明天皇を帰京させた、と考える…。 pic.twitter.com/D84p4gqG94
私的天智天皇即位② 661年11月斉明天皇崩御。 亡骸は、斉明天皇即位直後の宮である飛鳥川原宮に移送され、殯が行われている。 その地に建立されたのが川原寺であると考えるが、日本書紀は完全に沈黙。 尚、発掘調査などによって、創建は中大兄皇子称制期とされる661年から667年間が妥当、とされる…。 pic.twitter.com/l1VJU91mP0
「そこで注目したいのは、『日本紀略』大同二年十一月乙酉(二日)の条の記載である。……いわゆる伊予親王事件の結末を告げる記事であるが、伊予親王と母の藤原吉子は川原寺の一室に幽閉され、飲食不通の状態に置かれたのである。……飲食を断たれて十日後に、親王母子は薬を仰いで死んでいる。」
これがひとつ目のポストで3DGS(※仮に蓮子グラメトリーと呼んでおく、違うけど)した26番のハス。蓮子が小さくて可愛いですね。川原寺式軒丸瓦の中房蓮子のようなブツブツ感はありません。 pic.twitter.com/YtyjkKzEoX
観世音寺は当初川原寺と同じ目的で計画されたが、後から国家鎮護としての立ち位置に変更になり、本尊も武装色の強い不空羂索観音に変わった。 これが国家鎮護を目的とした寺院の伽藍の様式になっていき、国境における教化政策の拠点として、後の郡山廃寺、多賀城廃寺などにその思想が継承される。
そして白村江の後は、法起寺式はただの先祖供養だけでなく、戦没者慰霊としての色も持つようになり、その発展としての斉明帝廟所の川原寺と、ほぼ同時期でありながら、川原寺と法起寺双方の過渡期的存在である高麗寺があるのでは。
今日の「川原寺跡」弘福寺 #明日香村 川原寺は7世紀の天武天皇の時代に飛鳥寺・大官大寺・薬師寺と並ぶ四大寺の一つとして栄えた。平城京遷都に伴い、他の三寺は新京へと移されたが、川原寺だけは飛鳥の地に残された。謎の大寺。 pic.twitter.com/M8lDLSljsO
石山寺には硅灰石(けいかいせき)という天然記念物に指定されている大きな岩塊があるのは有名な話。 本堂のすぐ下は石切り場で、ここから切り出された石は奈良の川原寺中金堂の礎石として使われているとか。 解説としめ縄で飾られた石を📷✨ pic.twitter.com/DemikjSUDU