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返信先:@kakeru_6avenue横浜中華街の、生年月日から色々占うタイプのお店 質問を用意していけば答えてくれるけど、何もないと今後の運勢とか向いてる仕事とか色々話してくれて面白いよ。自然科学とは違ったものの見方を体験できる。
マクロ経済政策が経済学の教科書に載っている理論通りにやれば上手くいくものならば、どの国も経済運営で困ることはないのだ。自然科学とは異なり、経済理論はそんなにしっかりした確からしさがあるわけではないのだ。
返信先:@zarastro_jp「自然科学とはなんなのかという根本的なところが理解できないんだな」 自然科学とは何なのか、というのは、なかなか簡単には解答できない難しい問題です。あなた自身が考える、自然科学とは何なのかの根本的なところを、ここで今、開陳してみてください。
返信先:@zarastro_jp「自然科学とはなんなのかという根本的なところが理解できない」 これも勘違いです。物を数える方式の1つとして、人類はかけ算というシステムを作りました。可換性はそのシステムがもつ性質です。もちろん、そのようなかけ算が自然科学に適用できることは、たしかです。
とことん文系脳というのは自然科学とはなんなのかという根本的なところが理解できないんだなという感想。 算術のテクニックとして「こうすると覚えやすい」と教えるのはいい。それは教育学の範疇。しかし、自然科学に反することを教えるのはダメなんだよ。 x.com/sandykeih/stat…
返信先:@kikumaco「どちらでもいい」という教え方は人にとって思考上やコミュニケーション上の負荷が大きいです。 どちらでもいいなら、文化的教育的に「被乗数×乗数」と決めても構わないはずです。 式とは、本来そのようなものだったのではないですか? (画像は広辞苑第五版。広辞苑執筆には数学者が複数参加) pic.x.com/tDCATKyFzn x.com/sandykeih/stat…
ミレトス派の動者は物質であり、エンペドクレス以降では非物質なのであるので、ここに形而上学の誕生を見いだす立場もあり得るかもしれない。そして愛憎やヌースを動者とするのは自然科学とは相容れないことになる。コントは、形而上学は実証主義より神学に近いと言うが、確かに神学も形而上学も実体を
覚書。自然法則とは物質間の恒常的相互関係それ自体であり、自然科学とはその記述である。その典型が万有引力の法則や作用反作用の法則であり、甲が乙に影響を及ぼすとしたら、乙も甲に影響を仕返すのである。他者に一方的に影響するだけで自らが何ら影響を及ぼされないような存在者を想定するとしたら
目次あり。「社会科学が対象とする人々の暮らしや行動は、自然科学とは異なり、同じ状況を再現し難いものです。このため、社会科学においては、できるだけ観測に客観性を持たせる試みが繰り返されてきました…」 ⇒杏林大学総合政策学部編 『教養としての社会科学』 丸善出版 hanmoto.com/bd/isbn/978462…
返信先:@robert_KIMATA「自然科学とは何か、どうあるべきか」みたいなことを考えるのは自然科学ではなくて科学哲学(自然科学の哲学)とは呼ばれますね。 「科学哲学は、鳥類学が鳥にとって役に立つ程度にしか、科学者にとって役に立たない」とか言われたりするわけですが。 その役に立たなさに哲学者はどう向き合うのか。
欧米圏教養層に共有される「同じ内容を色々な言い回しで言うのがお洒落」という風潮、学術論文(特に自然科学)とは破滅的に相性が悪いのに、彼らが自然科学の覇権を握ってしまったのでノンネイティブの自然科学者は常に苦しめられています…… x.com/HiraokaYasushi…
エッセイではそうなんだけど、学術論文では厳密に用語を選んで、一貫して同じ用語を使うようにしている。拙くても論理的に正確で、非英語民でも誤解なく伝わる無粋な文体 x.com/Mitchara/statu…
【再掲】 ニーチェ哲学的なことを言う利根川進であった。ニーチェ哲学自体は反近代なので自然科学とは相性はよくない。 ただ、科学者・研究者が一人でも何とかする内的確信のあり方とは相性が良いとおもわれ。 2021年1月30日 x.com/hiruandon89/st…
【再掲】 ニーチェ哲学的なことを言う利根川進であった。ニーチェ哲学自体は反近代なので自然科学とは相性はよくない。 ただ、科学者・研究者が一人でも何とかする内的確信のあり方とは相性が良いとおもわれ。 2021年1月30日 x.com/hiruandon89/st…
ノーベル経済学賞を取った人の理論を錦の御旗のようにふるって日本の政治批判はしないほうがいいよ そもそも経済学って物理学や化学とかとは違ってもっとあやふやなものだから。データや数字を基にしてたとしても、対照実験とかは現実社会ではできないので、自然科学とはワケが違う。
現時点において「反証可能性」という手続的発想の共有がある自然科学とは異なり、人文学に根拠は「ない」。真の意味で「存在しない」。真理らしいという僅かな感覚だけが「ある」。無根拠の部分だけ取り出せばパラノイアのようなものだが、3つ以上の無根拠で結び目をつくると「安定」が発生する。
裁判官は特定の事案で最適な解を出す事に、最適化された職業なので、社会科学的な思考とは別の頭の使い方をしている。解釈学は、自然科学とはかなり違う思考様式だし、カリキュラム的にも、法律家は社会科学を学ぶ機会が必ずしも保証されない。