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コロナ後の好景気とインフレ、大陸での戦争の余波で米価が値上がりを始め、国立市では新築マンションの打ちこわし運動などが起きており、このままでは内閣が退陣して立憲共産会から平民宰相が誕生し東京駅で刺されて軍靴の音が…
私、会津藩贔屓(身内が福島出身)だから余計そう感じるのだけど、 もし東北出身で平民宰相だった原敬が暗殺されてなかったら、日本はもっと違う国だったんじゃないかと思うんですよ。 明治維新(戊辰戦争)と太平洋戦争を経て、保守はねじれてる気がする。 ※個人の意見です
岸田首相「世論と輿論は別。原敬元総理に学ぶべき」 言葉遊びはともかく… "平民宰相"と学校で教わった原敬は、我々がイメージするような平民の出では決してないって事だけは周知しておきたい asahi.com/articles/ASS6B…
で護憲運動なんてした原因なんだけど 有名な平民宰相原敬の政党内閣が暗殺騒ぎなんかで倒れた後の組閣において「この人を首相にすればいいんじゃないすかね」と天皇に上奏する元老ってポジに当時いた人が政党政治を嫌いまくって 民間選挙とは全く関係ない貴族階級での内閣を作り続けたのが原因っていう
第二次護憲運動というと普通選挙法の端緒になったんだよね的な理解であとは学校教育だと単語を暗記ということになってしまうんだけど、実際あれの実情を理解しようとするとまず「当時の選挙では国会議員は選べるが内閣総理は国会で選出されず天皇が拝命するもの」という前提が必要になるので辛い
陸軍のトップで内閣総理大臣も勤めた山縣有朋は、 「こいつは賊軍ではないか」 と言っては東北地方出身者を引き立てようとしなかったので、 多くの奥羽越列藩同盟出身者は海軍に流れる事になった 平民宰相原敬(盛岡藩)が怒りを買った理由の一つも、 そんな山縣有朋と仲良しだったから
西南戦争に元会津武士は沢山志願して手柄を立てており、 「敵討ちは成った」 と思えたのが、薩摩への反感の薄い理由 長州は復讐の機会が無い上に、 山縣有朋のような露骨な会津差別者が専横を振るっていたので
駅舎の中には、平民宰相と称された原敬が襲撃を受けた記録が残されています。 ほとんどのお客さんが気づくこともなくスルーしてしまうコアなスポットです。 pic.twitter.com/btt51nfH9V
返信先:@makaibitoそして議員自体、あまり平民の出がそもそもいない件w 平民宰相も落ちぶれた藩士だし 芸能人もたどっていくと武士とか商人とかの出 我ら農民の出は少ないのである―――――
原首相、「平民宰相」って謳われていたのに、普通選挙に時期尚早唱えて議会解散させたのが悪評としてデカすぎたし、足尾鉱山とか「我田引鉄」論調(これは見方を変えると地方活性化を訴える政友会の公約に合ってるいるんだけども)による金権政治批判もどでかい傷跡になったイメージ😢
【原 敬(はら たかし)】 1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日 日本の外交官、政治家。 1918年(大正7年)に総理大臣に就任。 平民であり、爵位を持たなかった事から「平民宰相」と渾名された。 1921年(大正10年)11月4日、東京駅で暗殺された。 ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F…
日本の平民宰相・原内閣は1918年9月に誕生 明治維新が1868年、内閣制の創設が1885年、初の総選挙が1890年7月、帝国議会の開設が同年11月 近代憲法典の制定と民主議会制を構築した初代内閣総理大臣の伊藤博文は演説で度々、政党政治の到来に言及していた その伊藤自身も元は農民 日本の先哲も偉大