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青木村の峠【02】 保福寺峠 奈良時代の官道である東山道は、標高1345mのこの保福寺峠を経由していた。江戸時代も東山道は保福寺峠街道として利用され、松本-上田を結ぶ重要な道だった。 pic.twitter.com/BgmrI5sqco
攻城とかのあとに、官道をみんなでてくてくお城に帰るために並んで帰るのがとても好きでした🥰。シーズン変わってみんなバラバラになって、今シーズンは結構孤独に 1部隊のみで帰ってます。もう少ししたらもう1度遷城するのかなぁ🏯。そしたらまた新たなご近所様できるかな?
きっかけは官道計画の調査測量がどのように行われたのか、なんとなく思い描いていた時、たまたま狭山丘陵の将軍塚と、多摩丘陵の黒川丸山城という南北のピークを結んでみたところ、東海道の武蔵路とされる多摩市打越山遺跡の道路遺構の通りの上を通っていて、驚かされたことからだった。
江戸時代には参勤交代にも使われた、西粟倉村にある街道「智頭往来志戸坂峠越」が国の史跡として追加指定→古代の官道で、国司が任国に赴く際に通行したというよりも、参勤交代の方が伝わるよね。 西粟倉村の街道「智頭往来志戸坂峠越」が国の史跡に|NHK 岡山県のニュース www3.nhk.or.jp/lnews/okayama/…
日本最古の官道である竹内街道(現在の大阪府堺市と奈良県葛城市を結んだ街道)の最東端にある神社です。竹内街道が敷設された613年より前から、現在の場所に鎮守神として祀られていたと考えられています。交通の要衝に位置することから、現在でも「交通の神様」として慕われています。 #長尾神社 pic.twitter.com/LI3azjvq6h
源頼義は頼朝公の五代前のご先祖で河内源氏の初代、源氏の本流筋です。 奥さんの実家は鎌倉に領地を持つ平直方(平貞盛嫡流) 弓の腕前に惚れ込んだ直方が頼義を婿に迎え入れ、鎌倉を譲ったところから鎌倉幕府の成立に繋がっていくんですねぇ🤔 ここが相模国から陸奥に向かう官道だったってことかな? pic.twitter.com/ygET75IdgD
返信先:@4qluNEnM13IuwiZこの踏切を渡る東西の路地、平安時代の古代官道(東海道)なんですよ。この辺が湿原だった1300年前からある道✨ pic.twitter.com/JUcl04V670
【位山道(東山道飛騨支路)】 東山道飛騨支路は畿内から東北へ通ずる東山道のうち、美濃の方県付近で本道と別れて飛騨へ向かう官道。位山道はそのうちの下呂市萩原町から高山市一之宮町へ至る位山峠を越える道。 (写真の場所は高山市一之宮町のモンデウススキー場近く) pic.twitter.com/qDc6eT8Fz4
河原を走りながら気になっていた曹洞宗の牛頭山天王院へ。 境内に紫陽花が植樹されていてしまったと思いました。 裏にまわると曹洞宗には珍しい禅庭が広がっています。 (臨済宗は夢窓疎石が庭造りを頑張りました💮) 幻の相模沼田城主が開基だそうです。 この辺は官道だったからか城跡多いですね🤔 pic.twitter.com/hkoADQNCQL
どうしても府中を絡めたい考え方のもとが、相模原市を北上して多摩丘陵に突入する道を、古く相模人は「奥州古道」と呼んでいたから、東海道と東山道を結ぶ官道に違いないと決めつけたことだけが理由だろう。 だから東山道武蔵路の駅のある府中の次に杉並区へという論法だ。夷参〜府中間を考えてない。
中山道、江戸から見て十二番目、上州二番目の宿場町は倉賀野宿 京から下ってくると、ここ倉賀野宿でそのまま江戸に向かう中山道と日光へ向かう道に分かれる 江戸時代に整備されるまで中山道という道は無く、律令制の官道である東山道であったが、中山道整備後は日光例幣使街道として存続したようだ pic.twitter.com/j3oFcwQ2jI
返信先:@TORUSuzuki10他1人古墳時代から近世初頭までは比較的水域は安定していたのではと考えております おそらく標高1メートル付近が当時の水域では無いかと個人的には考えており、その根拠は鬼怒川(現在の利根川)流域と桜川、恋瀬川流域がそれよりも高い水域だと古代の官道が水域よりも低くなってしまうからです
恭仁京東北道は、恭仁京から紫香楽宮までの古代の官道。続日本紀の天平14年(742年)2月5日条に「この日始めて恭仁京東北道を開く。近江国甲賀郡に通す」という記述があり、天平14年8月27日条には「紫香楽宮に行幸す。即日、車駕、紫香楽宮に至る」と記され、聖武天皇が紫香楽宮に行幸したとする。
八幡信仰拡大時の平安~中世の官道の資料を引っ張ってこようとして力尽きる週末。 x.com/ZENRIN_officia…
「八幡」という地名の読み方初見じゃわからない!というみなさまのために?「八幡」地名読み方分布マップを作ってみました🗾 九州では「やはた」、東北の東側では「はちまん」が多いようですね🤔 あと大発見(?)なんですが、なんかルートに沿って八幡地名が点在しているんです...詳細はリプへ pic.twitter.com/GfUZEpJW7m
→【聖地ご案内】 #白鳥陵古墳 白鳥神社から駅に戻る。駅横の踏み切りを渡り直進。 写真の軽自動車が停車している側の信号を渡り、左へ道路沿いに歩くと、右側に写真の石碑が。 その横の坂道を上がり直進。ここは竹内街道(日本最古の官道) すぐに左手に白鳥陵が見える。 続く→ pic.twitter.com/jt5cNAVwjt
この提案書は受理され、武蔵国は東山道から東海道に所属替えをされることになりました。771年です、東山道武蔵道は政府の官道としての役割を終えました。が、しばらくは東山道に繋がる道として使われていたのでしょう、833年に、行き倒れる人が多いので旅人を救済する悲田所を置きたいという訴えが
それではまず、東山道武蔵道の概要についてお話させていただきますね。東山道武蔵道とは奈良時代、もしかしたら原型はそれ以前に出来ていたのではないかとも言われる、中央政府の整備した官道、いわゆる五畿七道の枝道です
ちなみに坂本から夷参を貫く、測量上の想定線にはあざみ野駅周辺がある。繰り返すが延長上に大山道、二子玉川があり、ここで国府から品川への官道に合流することになるので、私は初期陸路はこれを利用して駅家が天沼(馬込)に設けられたと考えている。 いずれにせよ東山道武蔵路のような物証が無い。 pic.twitter.com/oFDRPoF8nO
矢倉沢往還を多摩川へ素直に延ばせば、それが大山道そのものになる。二子で渡河すれば、大国魂神社くらやみ祭の汐汲み儀式から考えられる国司巡拝の官道か伝路の存在が背景となり、それを併用しての乗瀦(大田区馬込)駅を想定できる。 小高駅が初期にあると六つ目のボトルネックになるからだ。 pic.twitter.com/TAVxaZtsPf
#楠木紀行 No.4 大阪堺と奈良葛城を結ぶ竹内街道。日本最古の官道(国道)です。南北朝の戦乱期には多くの軍兵が行き交いました。県境近くの街道沿いには、梨堂(楠氏堂)や楠木石切場、二上山城跡といった楠木所縁の地があります。 pic.twitter.com/XePWsuATep
【金田章裕『道と日本史』 全国で発掘されている古代ハイウエー】古代官道網は、整然とした幅の広い直線道を基本に、山麓・丘陵端、山頂・峠などを見通す形で敷設されている場合が多い。平野部のみならず丘陵部に切通しが設けられる例もある。 bookplus.nikkei.com/atcl/column/04…
大分県玖珠郡玖珠町 塚脇 玖珠町中心部のうち玖珠川左岸のトキハや警察署のある方。 古代玖珠郡の中枢を担った長野郷[永野郷]。塚脇周辺はその中心地で郡内で最初に荘園化した先進地。 長野大路なる官道らしきものがあったとされ、全く歴史的関連性は無いが現在の国道210号が形式的に後継者と言える。 pic.twitter.com/L0LenKUlW3
産経朝刊24p、"竹内街道"。難波から飛鳥へ "日本最古の官道"。613年、推古天皇が、国として初めて建設した官道。当時の外交の玄関口、"難波津" と政治の中心 "飛鳥 小墾田宮" を結ぶこの道が、"難波大道、竹内街道、横大路"だったと見られる。"総延長410km、幅20m超" 。大陸からの外交使節を迎える為。