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急いでバァーって打ち込んだもんだから、安政の大獄と彦根藩と水戸藩云々の間に水戸浪士が起こした桜田門外の変(井伊直弼の暗さつ)が抜けていた😅 そもそも、彦根藩は将軍継嗣問題で紀州藩の徳川慶福(後の14代将軍 徳川家茂)を推していたから、彦根藩と水戸藩は相容れない関係だったのかも
開国派の井伊直弼が大老に就任→攘夷派の徳川斉昭を安政の大獄で処罰→彦根藩と水戸藩と険悪になる→徳川斉昭の息子の徳川慶喜が将軍になる→鳥羽・伏見の戦いで彦根藩が幕府側を裏切る→北越戦争で与板藩(井伊家の分家)が新政府側に協力し長岡城攻略を手助けし落城の一因を作る 結構影響大きいのよ
おはよ〜 1858年の今日は彦根藩主の井伊直弼が江戸幕府の大老に就任した日! 開国派として日米修好通商条約を勅許を得ずに調印 さらに将軍継嗣問題では次期将軍を紀州藩の徳川慶福(家茂)としてそれに反対する人たちを弾圧(安政の大獄) 1860年に水戸藩の脱藩浪士などに暗殺された これが桜田門外の変だ
徳川慶喜の一橋家入りの際、父親の徳川斉昭は慶喜に諍臣が必要と考え、藤田東湖に人選を依頼。川路聖謨や藤田から同家の小姓として推薦された。安政5年(1858年)、徳川家定の将軍継嗣をめぐる争いの折、中根長十郎(一橋家家老)とともに慶喜の将軍擁立に奔走→失敗。徳川慶福(紀州藩主)が将軍に。
跡継ぎに恵まれなかった徳川綱吉は、かつて後継者争いをした甲府藩主( )を養嗣子に迎えざるおえなかった。 a徳川慶福 b徳川綱豊 c徳川綱重 d松平忠吉 amzn.asia/d/1Yl2BQs
南紀派 徳川慶福 とくがわよしとみ 井伊直弼 一橋派 一橋慶喜 ひとつばしよしのぶ 松平慶永 まつだいらよしなが 島津斉彬 しまずなりあきら 徳川斉昭 とくがわなりあき 山内豊信 やまうちとよのぶ 安政の大獄 徳川斉昭 とくがわなりあき 橋本左内 はしもとさない 吉田松蔭 よしだしょういん
篤姫第23話に家茂登場!☺️✨👏🏻👏🏻 徳川慶福(よしとみ)将軍になる前、紀州藩藩主だった時の名前。 4歳で藩主に、将軍に13歳で就任って凄すぎひん? pic.twitter.com/xxUnHwQn4s
将軍家定が重体となるや、譜代大名のあと押しで井伊直弼が大老となる。 将軍後継も紀州徳川慶福と決まり、家定が死ぬと十四代将軍徳川家茂となる。 大老井伊直弼は勅許を待たずに条約に調印。日本は開国する。 将軍継嗣問題は一橋派の敗北となり、条約勅許問題も開国により幕引きとなった。
病弱な家定のあとをどうするか。 血筋や先例にとらわれず有能な者を将軍にすべきだ、という一派は一橋慶喜を推す。 島津斉彬、徳川斉昭、松平慶永ら有力大名を中心に老中阿部もこっち派。 保守層は譜代大名を中心に、御三家紀州から徳川慶福を将軍にするべきだと主張し、将軍継嗣問題がまきおこる。
大福ちゃんがとうとう兎山大福と名乗り始めたので、追加プリキュアの可能性が高まったんですが、人間体になるならなんて名乗るのか問題が台頭してきた訳ですね ところがどっこい、大をひろと読めるし徳川慶福という方がいたんですが、福をとみと読めるので名前に関してはなんとかできます