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旧唐書安重栄伝に「五色の水鳥を献じられた安重栄が『鳳凰ならん』と言って飼わせる」という話があった。新唐書張鷟伝には「幼い張鷟が夢に五色の大鳥を見る」という話があったが、こちらは紫の文様から父が「五色の文様があるものは鳳であり、紫の文様があるものは鸑鷟だと聞いている」と言った由。
人肉を食い屍が地を覆い隠した。黄巣の乱875~84は唐末の農民反乱。黄巣軍は数年で50万人の大軍になり880年長安を占領した。新唐書楊国忠伝;楊貴妃兄国忠は貴妃が玄宗の寵愛を得て宰相に登った。国忠に反発し安禄山の乱となる。玄宗が四川へ逃れる途中兵士の不満爆発造反し楊貴妃兄妹の処刑を迫った。兵
返信先:@k2WcR8g3eLdqNgj他1人>『旧唐書』『新唐書』双方に基づいて、その説を説明して下さい とのリクエストです。両『唐書』には大化の改新とか壬申の乱とか書いてありません。
文字を操った渡来人や文字を学んだ少数の「日本人」は邪、卑、倭の用字をあまり気にしなかったんでしょうが(古事記等に用例あり)、役人育成で大量に日本人が漢字を学ぶようになると、漢字の意味が引っ掛かって、次第に好字に置き換えられるようになり、国号も日本に変えたようです(新唐書)。
考えれば分かる事 例えば自分を表すのに悪い意味の漢字は使わんよね 邪、卑、倭、使うわけない 邪馬台国(邪馬壱国)(やまとこく)→大和国 卑弥呼(ひみこ)→日巫女 倭人(倭国)(わじん(わこく))→和人(和国) 弥助も同じ「侍ではない」 #邪馬台国 #卑弥呼 #倭人 #弥助
返信先:@Um1min_K810新唐書には大祚栄は粟末靺鞨人って記述されてるけど 今の研究では建国者大祚栄の民族って不明なはず その父の乞乞仲象の出自も不明やったはずやし それに建国者の民族で国家の属する民族、地域を決めるなら清はともかく隋唐、ロシア,フランスの諸王朝の捉え方が変わってくるし正味不適当やと思う
#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え 三国志で有名な劉備の子孫は、直系は割と簡単に絶えてしまうのだが、「俺が子孫だ、劉備のあとを継ぐんだ」と言い出した遠縁の人が結構頑張ったため、400年後に唐代の宰相にまでなっている(『晋書』劉元海載記、『新唐書』)
同「宣州:安徽省の軍人は人間を捕えて市場に赴き売渡した。縄に縛付け羊豚の様に殺した。泣声聞こえず💀は市場に積重ね流血は市場に溢れた」新唐書列女伝に美談「唐代周迪なる行商人、道中畢師鈬の反乱に会った。人々互に捕合って市に売られ食用に供せられる時世になった。迪此乱に捲込まれて餓死しか
史思明到底是啥種族有很多猜測,新唐書說是突厥人,和安祿山是同鄉,不過名字好像又是粟特語,所以有可能是突厥化的粟特人,草原民族是這樣的,他祖籍是什麼搞不好他自己都搞不清楚。 pic.twitter.com/NV3mYa3qlW
我好奇那么史思明又是从什么音译过来的,查了一下维基:“史思明(703年—761年)为昭武九姓的粟特人,初名窣干。”于是我跑去问乌克兰同事,有没有叫窣干类似发音的人名,他表情复杂地笑了笑,“不会有人叫这个名字的,听起来是cyka,俄语和乌克兰语里是bitch 的意思”。所以史思明其实到底是什么呢。。。
『新唐書』宰相世系表だと、どうも董卓の先祖は項羽の子分の董翳らしいですな、隴西の董氏(董卓はずばりこれ)は董翳の子孫だそうで。ただ隴西の董氏って董卓以降史書に全く出てこないんですね。董卓が悪いことをしすぎて子孫も名乗りにくかったのかねえ
返信先:@sugaharakotaそんなのみんな知ってるのでは? そもそも神功皇后も実在不明。 全国の八幡神社に祀られているから実在を信じたいが。 明治の人は最初の女性天皇を神功皇后として習った人もいるし。 中国でも11世紀の新唐書に「神功天皇」と書かれていたりする。 しかし、 闇鍋さんは、現・皇統譜の話をしている。
返信先:@acJRecBWRVjdjT3ヤマトの呼び名の語源は神武東征の母体である九州が起源で新たな近畿の入植地に名付けたと思料す。「倭」は後漢書東夷伝で名付けられたもので主に小さい意味合いを嫌い飛鳥浄御原令で国号「日本」を自称。その辺の経緯は旧唐書倭国伝~新唐書日本伝に混乱した記述あるが概ね的確で国名変更を認めた。
☆研究ノート 藤野正人「毛利鎮真考―大友宗麟に仕えたある側近の軌跡―」 ☆新刊紹介 森田悠斗「西田祐子著『唐帝国の統治体制と「羈縻」―『新唐書』の再検討を手掛かりに―』(山川出版社、2022)」 ☆コラム-歴史のとびら- 大隣昭作「新時代の記録術:カメラによる3Ⅾデジタルアーカイブ」
石井仁「富春孫氏考」によると新唐書宰相世系に孫堅の父とされる孫鍾の弟に太原太守孫旃がいる。その子の楽安の孫炎(孫叔然)は鄭玄に学び魏の秘書監に任命されたが応じなかったと王朗伝にある。孫叔然の弟の孫歴は幽州刺史を務めたと晋書孫旂伝にあり、おおむね宰相世系と三国志・晋書は一致する。
まめさんから勧められた文献サイトで「周瑜」で検索してたら『新唐書』の武廟のとこがあった 開元十九年,始置太公尚父廟,以留侯張良配 張良は武廟十哲に選定されてるけど実は他の十哲と違って最初に廟が建てられた太公望と共に合祀されてるみたい つまり武廟の頂点は太公望だが二番手は張良!!! pic.twitter.com/o23GsjyqPG