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松平広忠の墓がある松応寺。2回目の訪問だけど廟所の門にある銀杏紋を確認に来ました。 あれ?めちゃキレイになってる。 門も建て替えられていて銀杏紋もなくなってた(無念) 気を取り直して大宗寺へ。境内は草が伸びていて少し寂しい。 石川数正の墓は・・ あっ!ここ忘れてたけど来たことあった・・ pic.twitter.com/hOwFIX9BcU
その他、大谷吉治(大谷吉継の子)や御宿政友、石川康勝(石川数正の子)などが討死。 午後3時頃に壊滅し、敗退した豊臣勢は、なす術も無く、この翌日に全員自害し、滅亡するのです。 pic.twitter.com/zBHDnOyLOv
返信先:@naruseyanoken1ということは石川数正の次男、石川康勝が討たれた日でもあります。 康勝は信繁とともに家康の陣へと向かう乱戦の中で共に討ち取られました。大河ドラマで描かれないのが不思議です。
返信先:@zeppekiman劇中で呼ばれる頻度で影響の差が出そうな気がします。その場合だと、主役キャラ以外は石田三成の「治部」や本多忠勝の「平八郎」が定着してそうですね。 昨年の大河だと酒井「左衛門督」や榊原「小平太」も良い感じですが石川数正はそのままだったりする…
『三河雑兵心得⑩ 馬廻役仁義』 感想書きそびれてた。死んだと思われた茂兵衛の帰還と石川数正出奔のくだり。後者は『どう康』と似たり寄ったりだが、家康は松潤よりも食えなくて面倒くさい描かれ方。そうでもなきゃ乱世の覇者にはなれなかったでしょうけど
水面に映るお城が綺麗👏 石川数正公もおよろこびだと思います (by 英雄達の選択)
【熊本城を抜く】松本城のインスタフォロワー、城郭の中で日本一に news.livedoor.com/article/detail… 28日午前11時の時点で、松本城のインスタのフォロワー数は2万7853人で、熊本城の2万7776人を77人上回った。他の城では、姫路城1万5717人、二条城1万2525人、大阪城6847人だった。
とても面白かった。下巻を見てもやっぱり家康だった。気になったのは石川数正。恥ずかしながら、秀吉に降ったこ...『覇王の家(下) (新潮文庫)』 司馬遼太郎 ☆4 booklog.jp/users/sikisoku…
豊臣と徳川が合戦でぶつかる前、最も緊張感が走ったのが石川数正の出奔でしょう。 「幼少期から家康を支えてきた重臣がなぜ?」 と同時に考えたいのが 「なぜ秀吉は他家の武将を次々に引き抜けたのか?」 という点です。 調略に長けていた秀吉のスカウト術とは? bushoojapan.com/bushoo/toyotom…
#黄金の日日 第35話 陰謀 天正13乙酉(1585)関白宣下 秀吉)根来衆 雑賀衆~四国攻め 第一次上田合戦~石川数正)秀吉に出奔 助左)淀川決壊~緊急治水 利休)関白茶頭★美緒匿う 天正14丙戌(1586 秀吉)禁中茶会~黄金の茶室 助左)治水褒美☆千石船 秀吉)家康へ人質・妹母 家康)秀吉に謁見~臣従 pic.twitter.com/1sWHJezWh5
ジャズ音楽のシステムの 全てを学んだ人間が、 それをクラシック音楽家に 教えたとする。 仮定の話ね。 スパイでもなんでもなく、 発展という話だろう。 共存であり、アウフェーベンだろう。 石川数正はスパイだった 可能性が高いが。
返信先:@jun_ito_info大河ドラマ『どうする家康』最大のミステーク。あれで視聴やめた方を複数知ってます。ちなみに築山殿、岡崎城へ暫く入城できぬほど三河家臣団に嫌悪され、信長へ首実検後、路傍に晒され、石川数正が同情して埋葬した逸話が残ってます。
どうする家康、見返してるがやっぱり家臣団の素襖の色合いが最終回のは明らかに違う(というかごめん私は大森南朋の酒井左衛門尉忠次ばかり見ているので酒井左衛門尉忠次の素襖なんだが)んだが…やたらニコニコ笑っている石川数正といい これは回想ではなく今際の際の徳川家康の夢なんだろうなやはり
人の上に立つに相応しい方だな家康公は。家臣の離反も他大名よりも非常に少なかったそうだし。石川数正 公は命を受けてのと言われているし
徳川家康の叱り方 1. 本人だけに伝える 2. いつもより言葉を和らげる 3. 最初に今までの功績を称えて感謝する 4. 今回のミスは君には似合わないと伝える 5. 最後にこの先も期待していると伝える 6. 部下への注意は自分への戒めと捉える 天下統一も納得である。
空想アニメ 女徳川 徳川家康 上坂すみれ 本多正信 井上麻里奈 本多忠勝 小松未可子 榊原康政 早見沙織 酒井忠次 水樹奈々 井伊直政 伊瀬茉莉也 鳥居元忠 高垣彩陽 服部半蔵 斎賀みつき 石川数正 能登麻美子 水野勝成 瀬戸麻沙美 真田昌幸 花澤香菜 豊臣秀吉 釘宮理恵 織田信長 小林ゆう
返信先:@one_of_Maggyers凄く綺麗ですよね…天気が雨予報から何故か晴れて素晴らしい景色を見ることが出来ました! 階段角度61度っておかしい(笑) 守るために色んな工夫があるのも見応えありますよね! 現代の人にも印象を残す城を作った石川数正、お見事です。
松本城 石川数正はどんな気持ちでこの景色を見ていたのかなぁ… 城下には井戸がいっぱい!とっても美味しい水。これを水風呂に出来れば…🤔 天守閣への階段が急でなお且つ観光客が多く渋滞してたのは焦る💦外国の方もとても多い! #松本城 pic.twitter.com/MDje2MCgW9
徳川氏が領土を急拡大させても大失敗しなかったのは、家康が新領に居城を移して統治したのが大きかったのかな。 腹心(政権中枢)は常に自分の傍にいる。 離れていても吉田城の酒井忠次、掛川城の石川家成。 石川数正は浜松城に常駐だと思う。
🔽"家康を辿る城旅"展開中。ブログ記事はこちら。 石川数正出奔!ゆかりの「松本城」へ…戦うための黒い天守にこめた思いは? | 夢中図書館 いざ城ぶら favoriteslibrary-castletour.com/nagano-matsumo…
家康のもとを出奔した石川数正は、後に松本の領主となり松本城の築城や城下町の整備を進めました。 松本城は日本100名城の一つ。国宝となっている天守や太鼓門・黒門等は数正・康長親子が造りました。 石川数正出奔を機に和平交渉が大きく動き出します。ついに家康は秀吉への臣従を決意するのです。 pic.twitter.com/F4TiQMo2gR
小牧・長久手では勝利を収めた家康でしたが、天下の趨勢は秀吉側に大きく傾きました。対決か臣従か…。 一本気な家臣の多くが主戦論を唱えるなかで、家康の側近・石川数正は戦うことの愚を訴え主戦論に強く反対しました。 やがて家中で孤立した数正は、家康のもとを出奔。秀吉のもとに帰順しました。
小牧・長久手では勝利を収めた家康でしたが、天下の趨勢は秀吉側に大きく傾きました。対決か臣従か…。 一本気な家臣の多くが主戦論を唱えるなかで、家康の側近・石川数正は戦うことの愚を訴え主戦論に強く反対しました。 やがて家中で孤立した数正は、家康のもとを出奔。秀吉のもとに帰順しました。 pic.twitter.com/ov7HdWyjar