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返信先:@yamagishimadam慶喜公は徳川家と皇室の両方の血筋を受けた聡明な公方様だと思います。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北し、錦の旗を掲げる新政府軍が正当性を得たことで戦いを継続するよりも恭順を選んだのは、内戦による混乱で植民地になる恐れや江戸が焼け野原になることを避けるための英断だったと考えられます。
これは、「天皇」という古代的君主号が忘れ去られていたことを歪曲した典型的マルクス主義者的プロパガンダの歪曲史観。 「天皇」という古代的名称は庶民にはほぼ失念されはいたが、京都に「天子様」「お内裏様」という、公方様より尊いお方がいらっしゃる事はよく知られていたのだ。 x.com/djR61A2bmS4AOP…
返信先:@zqpCL4gDknmK1wE天皇に対する尊崇の念など、武士も町人もありませんでした。 天皇を神格化し始めたのは明治以降です。 現人神カルト国家は80年弱の間に、戊辰戦争・西南戦争・日清戦争・日露戦争・ノモンハン事件・シナ事変・太平洋戦争と戦争に明け暮れた修羅の歴史でした。
返信先:@djR61A2bmS4AOP0他1人「天皇」という古代的名称は庶民にはほぼ失念されていましたが、京都に「天子様」「お内裏様」という、公方様より尊いお方がいらっしゃる事はよく知られていました。
まぁ自分としてはカトリックをことさら優遇するような描写があるのかと言われれば確信できないが、少なくとも反差別を何らか発信してるはずなのに、オリエンタリズムと思える描写や設定は数々見える。 公方様まで名を連ねる大規模な陰謀団が結局テンプル騎士団のいちメンバーの前座という流れも含め
新しい拠点、古河を中心に、関東公方勢力の強化に力を注ぐ一方、成氏は決して鎌倉を忘れたわけではなかった。古河には、成氏時代に創建された鎌倉ゆかりの寺社、八幡神社・尊勝院・神宮寺・長谷寺などがある。鎌倉の人々も、成氏が古河に去った後も、成氏が「公方様」であると認識し続けていた。
日本歴史7月号所収論文「九州地域から見た慶長期の『公儀』と豊臣秀頼」読了。関ヶ原合戦後の公儀のあり方を九州での秀頼の権威、豊臣蔵入地の変遷、訴訟等から多角的に検討し、二重公儀論を否定しつつも秀頼の持つ公儀の要素を指摘する。相良頼房が慶長11年に秀頼を公方様と呼称していたのは驚いた。 pic.x.com/fukzKNRosY
大河ドラマのプロポーズといえば、我らが🦒十兵衛くんのプロポーズは大河主人公比まともですし、相手も初恋の女性で良いのですが、プロポーズの直前まで公方様のことを考えているのと、そもそも家族が結婚させようとした理由が、朽木で公方様に会って帰って以来奇行が止まないため、なのが独特の味わい
15人目→足利義教/室町幕府 公方様で誰が好きかと言われたら賛否あろうが私は義教と答えるんだぜ! 第三回足利総選挙の開催ないかなぁ… 万人恐怖とか色々言われてるんだけど ただ火力調整が下手っぴなだけで悪くはないと思うんだ。 可愛い鴨の雛のお誘いに乗らなければ… 赤松め…文字数が足りぬ…!