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祝!テレビアニメ『超人戦隊バラタック』放送開始記念日(1977年7月3日) 池原成利、小林檀原作、西沢信孝チーフディレクター、池原しげとキャラ原案、小松原一男キャラデザ、辻忠直美術・メカデザ、小森昭宏音楽、水木一郎、コロムビアゆりかご会主題歌歌唱、テレビ朝日、東映動画、ジャパド制作 pic.x.com/Wh1HQSZlgV
【清廉忠直】王修(叔治)、曰く「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つと、公言するのと同等の愚行である」 by袁譚に侫臣(袁尚に先制攻撃を進言した郭図・辛評か)を斬って袁尚と和睦することを薦め
ほぼWikipedia出典だけど 松平定信と松平容保はなにか関係がないのかなと見ていた 忠直とかも関係ないのかなとおもったけどあれもまた松平の名の発生としては独立してそうなので 大名系の姓が共通しているからといって安易に近縁を予断してはいけないのかもしれない pic.x.com/7wesoMLyhA
返信先:@c65F4cPjZUySLf0他1人中山忠直という人が「日本人の偉さの研究」というバカみたいな本を出版し、日本人は和式便所だから偉いのだと言っていた笑 それが戦中の昭和13年に一躍注目され、バカみたいな「愛国者」が担ぎ上げていたのだよ笑 意味不明の「伝統」があるから日本人は特殊で偉いのだという考え、くだらないね笑
・追加(順不同/敬称略) 前)稗田一幸、志村雄作、久保田秀生、大日向忠直、芝崎茂、久保元治郎、今西修、高橋晋二、宮永卓、児子国高、大田静輝、長谷川実、高山昇/崔貞根、竹田興光、中村伊佐雄、倉潔、須藤治韶、峰保昌。細木章、岡部三郎、佐々木秀三、柏木誠一、小屋哲郎、蕎麦田水行、森忠司、(続
おはようございます!徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂夏の陣の決戦前日、先鋒を願う孫松平忠直に家康は、「戦いを知らぬお前に任せん」と返答。怒る忠直は家臣に「死んで閻魔に会う」と話した。翌日家康本陣を急襲し勝利目前の真田幸村軍に家康譲りの「かかれ!」と絶叫突撃し祖父を救出して圧勝した。
「妹背」イサワ 陰陽 →伊勢 「妹背城」薩摩川内高城 甕 ミカド 武甕雷 諏訪(南方)神社 諏訪之尾城 は 是枝城 伊作 河邊氏 高望王6代頴娃忠永の子 忠方、指宿忠光、知覧忠信、 薩摩忠直 忠方の孫 奥忠房 ・忠直−忠友−是枝忠秀 ・国広−忠友−忠康−忠久 (市来家) x.com/mmntm115/statu…
津々見忠季 (島津忠久、忠季のきょうだい) 次郎、左兵衛尉 若狭兵衛入道(通称) 父:惟宗広言?または惟宗忠康? 正室 若狭尼 ...源頼政女と記した史料が 存在する「大音正和家文書」 子 忠清、次郎兵衛 『税所次第』『守護職次第』から 若狭島津家の四代までの事跡 x.com/mmntm115/statu…
リウで喫煙仲間だからちょこちょこ絡みに行って素気なく秀に扱われてるグもバトラーに対して何時も世話になってるな……って無表情で考えてる継承者も戦友とキャッキャしてる課長代理も親切くんと一番仲良しなバラグも忠直くんに色々任せる副組長も いやあの忠直くんに関しては色々おかしいよなにあれ
返信先:@tomoshibi6o6o因みに京極家が改易された後の松江には結城松平家(秀康三男の松平直政)、森家の改易された後の津山は天領をはさんで同じく結城松平家(秀康長男忠直の長男光長の養子松平宣富)が封じられていますね。
紛らわしいのわかります🥹 北条景広(北関東国衆)→小田原北条氏と関係ないし読み方が「きたじょう」 毛利長秀(織田家臣)→中国地方の毛利氏とは関係ない 島津忠直(信濃の国人)→九州の島津氏の庶流で、ちょっと関係あるんかい! x.com/sakanoue2758/s…
【葉隠の詳細を見る】 (65) 「切腹・殉死」 《知遇に感じて》 鍋島勝茂公の嗣子・忠直様が亡くなられたとき 追腹を切った 林 形左衛門(はやし・ぎょうざえもん) は、忠直様の生前 pic.x.com/MaKWAApTXk
返信先:@MR_DIECOCKしかしな、 放蕩王子も苦しんでおる! 保守界隈も、真髄たる「寛容」力の見せ所じゃぞ。 昔の中学生はよく、女教師から菊池寛「忠直卿行状記」を勧められたものだ。 ワシ半分読んで捨てたがな… そんなもんじゃ。 燕雀いずくんぞ… 「安倍さんが好き」は嘘ではあるまい。 芯まで悪の百🐜🐈とはどこか… pic.x.com/DOFrtzS3Um
『我が日本學』 日本人のルーツ・ユダヤ人問題は戦前の日本で 「この我が日本學」ここにすでに完結していた 戦後GHQが「完全に禁書した 多くの書物の内の1冊」 ・著者中山忠直・出版社嵐山荘・刊行昭14年 youtu.be/PpnoN7v3c18?si… pic.x.com/CyyDhufZ2R
松平忠直の付家老となり越前丸岡四万石を領して従兄弟の本多富正と共に若年の忠直を補佐し大坂の陣では武功を挙げ忠直が改易になった際には一旦江戸幕府に召し返され改めて独立した大名として越前丸岡四万六千三百石の譜代大名に取り立てられた
(2/5) 4)『春金抄』 作者:谷崎潤一郎/役:佐助 5)『滝口入道』 作者: 高山樗牛/役:滝口入道 6)『忠直卿行状記』 作者:菊池寛/役:忠直 7)『源氏物語』 作者:紫式部/役:光源氏 8)『花の青空』 作者:山手樹一郎/役:矢田弓作 9)『鳥辺山心中』 作者:岡本綺堂/役:菊池半九郎
93年の国立劇場だった。 しかもこの月は歌舞伎座で当時の八十助の忠直卿、梅玉と松江の扇屋小萩と桂子の百合を見て、松竹梅湯島掛額でお土砂で皆ぐにゃぐにゃになったのを観てた。 ヒーッ所作も色々覚えているし、展覧会もあれこれ見てるわ。
返信先:@blue_x09ゲームジャーナル No36 真田軍記 16ターン① 大坂方 勝利得点10 補充→2ステップ→幸村隊全快&昌幸隊へ 昌幸隊&明石隊vs上杉景勝 →14戦力・ダイス+3vs8戦力-3 →結果:2被害vs5被害→上杉隊 南部戦死 両軍撤退! 幸村&又兵衛vs松平忠直 →12戦力+3vs8戦力-3 →2被害vs4被害→忠直退却 pic.x.com/aZ9oMfRcFF
幕末に活躍した福井藩主 松平春嶽 朝倉氏が好きなのと、地元とご縁があるので、福井に行った際に歴博寄ったりしたので、知ってるつもりでしたが、忠直のせいで忠昌系に移ってからも50万石持ってるハズなのに存在感薄くね?と思ってたのですが、忠昌の孫の綱昌の代で、25万石まで減封してたんですね😅
辻忠直さん、ロジェ・ルメールさん、辻恭彦さん、ポール・マッカートニーさん、ファビオ・カペッロさん、アンドレス・ガララーガさん、吉住渉さん、曽田正人さん、門井亜矢さん、佐久間みのりさん、江尻立真さん、新垣樽助さん、小林由美子さん、黒乃奈々絵さん、中上育実さん、辻あゆみさん
返信先:@zeppekiman女官中心の宮中から新時代の帝に相応しい帝王学の師範として。 相撲で御追従負けしない、「忠直卿行状記」みたいにならない本物の剣士で忠臣を。 明治の宮中改革には「うーん」と思う行為(宮中飼育の白牛と駱や醍醐の廃止)もありますが貢蘇の儀と同様、廃される前に既に実態なき名のみだったとも。
松平康親 松井忠直の子 当初は今川氏の家臣として史料上に現れ初名は忠次であり松平忠茂宛今川義元判物にて忠次は松井左近尉と記され今川義元より山内助左衛門尉とともに松平忠茂に付属すべき内容が示されこの時より忠次はいわゆる東条松平家に寄騎として付属したと考えられている
残丘の中腹に忠直がお茶に使ったとされる御前水あるやで。 味のあるもん飽きたから水飲む 金気を感じるがうまいやで (主は川水飲んで平気なバケモノです。煮沸して飲用下さい。) pic.x.com/ZG3V3WyAcS
返信先:@blue_x09ゲームジャーナル No36 真田軍記 14ターン① 大坂方 勝利得点16 補充→1ステップ 移動 長宗我部→山城へ 譜代の大野治長&大野道大&蒲田vs 井伊直孝&前田利常&藤堂高虎 →16戦力vs12戦力 →4被害vs6被害→大坂方撤退 →関東方、追撃空振り 勝永vs忠直→1被害vs4被害 →忠直隊2駒除去 pic.x.com/SRS9abZi3N
返信先:@blue_x09ゲームジャーナル No36 真田軍記 13ターン① 補充→1ステップ→後藤又兵衛 移動 真田親子&後藤又兵衛隊→伊賀上野城前面に移動 長宗我部→山城へ移動中 毛利勝永→松平忠直へ合戦 →6戦力vs9戦力(お互いにダイス修正無し →0被害vs3被害で忠直退却→追撃空振り (忠直、籠城すればよかった?) pic.x.com/vhrBoWyubQ
政治家だろうと、自分を尊重しない人にいつまでも誠実でいられないよねと、思い出すのが菊池寛の忠直卿行状記⚔️ 忠直卿が、かかる残虐を敢てしたのは、多分臣下が忠直卿を人間扱いにしないので、忠直卿の方でも、おしまいに臣下を人間扱いにしなくなったのかも知れない。 aozora.gr.jp/cards/000083/f…
【清廉忠直】王修(叔治)、曰く「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つと、公言するのと同等の愚行である」 by袁譚に侫臣(袁尚に先制攻撃を進言した郭図・辛評か)を斬って袁尚と和睦することを薦め
【清廉忠直】王修(叔治)、曰く「兄弟で争うは、例えるなら、敵と一戦する前に自らの片腕を切り落とし、敵方に対し交戦の準備が整ったためいつでも受けて起つと、公言するのと同等の愚行である」 by袁譚に侫臣(袁尚に先制攻撃を進言した郭図・辛評か)を斬って袁尚と和睦することを薦め
だが当名は忠直の代から分割され 各々継承 1249年 忠友の妹くんあみたふつ (をゝくまの太子)から、子の をゝくまのみちひさに 「なりえたのみやうのうちかミこしき」 一ヵ所が譲られ 同所「かミこしきつ」五反・屋敷は 1253年みちひさから 「むとへのをゝいこ」に譲渡された
寛元二年(一二四四)六月二一日 忠直の子僧忠兼申状(旧記雑録)に 「富永成求北両名、雖為公田、 依為各別之名」とみえる「成求北」 名は当名であろうか。 忠友の子薩摩平三(実名不詳、忠茂か) に薩摩郡郡司職、成枝名内田などが 鎌倉幕府により安堵..? (「関東御教書」延時文書)
これらの地名から考えて 現川内市隈之城町・中福良町 宮崎町・尾白江町、現串木野市 羽島などが成枝名に含まれていたと 考えられる 忠直は成枝に居住し、その子忠友も 薩摩郡司を継承し、成枝名主で あったことから、成枝名が薩摩氏の 本拠地であったと思われる 「忠直譜」川内市史所収中俣氏 所蔵系図
成枝名 薩摩郡のうちの一名 薩摩国建久図田帳には薩摩郡 三五一町三反のうちに成枝八六町 があげられ、郡司忠友とある 忠友は薩摩郡司平忠直の子 なお「宮之城記」所収の建久四年 (一一九三)薩摩国諸郡注文に 薩摩郡分六名のうちに成枝名がある