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『日本三代実録』貞観元年に「神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、並従一位」とあり、八神殿のうち産霊の五神には神階の奉授があるが他の三神にはない 両者はもともとは別系統の神だったと思われる
だんだんと史料が集まってきた。 新訂増補国史大系『日本三代実録』『政事要略』『朝野群載』『日本紀略』は持ってない。 某古本祭で『新抄格勅符抄・法曹類林・類聚符宣抄・続左丞抄・別聚符宣抄』を買ったけど、8,800円もした。 『日本紀略』は2万円もしたから買えなかった。それにしても高すぎ。
2024年3月の旅 京都⑭ 京都市左京区岩倉の石座(いわくら)神社へ。日本三代実録に記載のある古社で、880年には当地に鎮座していたとされ、地名の由来となったとされる。971年の大雲寺造営の際に鎮守社として同寺境内に勧請された。毎年10月23日の秋祭では松明の神事が行われることで知られる。 pic.twitter.com/Z4APdlEw4u
宮城県角田市小田鹿島に鹿島神社が鎮座しています。社伝によれば、国史である日本三代実録に常陸国鹿島大神の苗裔神伊具郡に一社と記載されいるのが当社だとされています。確かに角田市は旧伊具郡ですが、丸森町小斎の鹿島神社も同じ主張をしていて、そちらの方が伊具郡衙(角田市枝野)に近いです。 pic.twitter.com/FvnjsV9tN0
平安時代以前に創建された古社のうち、『延喜式』神名帳に記載がある神社を式内社、記載がない神社を式外社という。また、神名帳には記されていないが、六国史(日本書紀から日本三代実録までの6つの史書)に記載がある神社を国史見在社という。
甲奴町「須佐神社」 いわずもがな、素戔嗚尊をお祀りしている。立ち並ぶ祠や絵馬からも相当な年代が伝わる。 三代実録なる記録に貞観三年(861年)10月のこととしてこの神社と思われる記述がある、らしい。 広島県もまだまだ知らないことだらけだなと思いながらバイクで帰路につくリスボンであった。 pic.twitter.com/FIdTfkLxJn
"正史『日本三代実録』は9世紀後半、都でたびたび疫病が流行したことを記す。" 平安時代にも「ステイホーム」 疫病封じのまつりは今も:朝日新聞デジタル 20200614 asahi.com/articles/ASN6C…
恒基王さんは三代実録に880年に死亡の記事が。こっちの方が信憑性ある気がします。倫寧は973年に子供が出来るので910年前後の出生かと思いますが。なので「蜻蛉日記の一条邸は973年の中川転居時に倫寧が従兄弟の満仲に譲った」説は眉唾モンだと思ってます。
伴信明の一族は『山塊記』にある阿多忠景・忠永兄弟の乱妨を訴えた薩摩国相撲に比定される向きがありますよね だとすると薩摩の伴氏は『日本三代実録』に「天下無双」「相撲最手」とある伝説的な力士で「薩摩氏長」こと伴氏長の頃から300年近く相撲の技を継ぐ氏族だったとも考えられるのが面白いです pic.twitter.com/FtSeTSgvMr
大伴氏(伴氏)は南九州と縁が深い。 川内のあたりに土着した伴氏がある。#伴信明 などの名が確認できる。島津荘の別当で、在庁官人でもあった。一族はのちに武光氏を称した。 ほかに #肝付氏 も伴姓だ。こちらは薩摩国掾の #伴兼行 から。 #大伴氏 #伴氏 #薩摩国
用例は「続日本紀」と「三代実録」だけである。 とコトバンクにあるんだけど、「阿奈々比」「安奈々比」(あななひ)と2例とも万葉仮名みたいな当て字 扶に「あななふ」を訓読みさせた言泉は、どっからか用例を拾ってきたのだろうか?言泉オリジナルなのかな?
「神長守矢氏系譜」では千鹿頭神は守宅神の子で洩矢神の孫に当たることになってるが、この「守宅(モリヤ)神」自体は大雑把に言えば『日本三代実録』に出てくる「宝宅神(=穂高神社)」の誤植から「生まれた」神格で、江戸末期の諏訪ではイコール洩矢神とされてきた
山春永ら肥前国住人四人と射手四五人が新羅の珍賓長と共謀した対馬島襲奪計画とその発覚の概要は 『日本三代実録』貞観八年七月十五日条(866年) 新羅が対馬を攻め取ろうと訓練しているのを目撃した対馬下県の卜部乙屎麻呂の一件が載ってるのは 『日本三代実録』貞観十二年二月十二日条(870年)
文献の上からでは8世紀の『常陸国風土記』に現れる福慈神の説話、また『日本三代実録』にある9世紀半ばの噴火に対する朝廷の対応が古い例として知られる。 ただ、あくまで文献上のことで、富士山を意識した遺跡や古墳から実際にはより古くからあったことが想像される。
#大坂冬の陣 の #吉川広家② 慶長19年11月9日、広家が井原元以に宛てた手紙の続き(『井上孫六家什書』)。#毛利輝元 に送った「書付」について『毛利三代実録考証』では「岩国ヨリ萩エノ行程三十里近キ所ナレハ、飛脚早シトイヘトモ、今十日御到来ナルコト明ナリ」とあります。この書付を読んだ輝元は
#大坂冬の陣 の #吉川広家① 慶長19年11月9日、広家が井原元以に宛てた手紙(『井上孫六家什書』)。「此中京都ニ付置候我等者、夜前罷下候間、上方之様子以書付殿様へ申上候条、不能巨細候、兎角一時片時も御人数差急御上せ候て可然存候事候条、可被成其御心得候」(このうち、京都に派遣していた…