- すべて
- 画像・動画
並べ替え:新着順
返信先:@Kawasaki1100zrx他1人こちらは旭川市博物館の記述。アイヌの人々は《11世紀前半には サハリン南部、13世紀以降は千島へも進出し、15世紀にはカムチャツカ半島まで活動圏を 拡大していました》カルト団体雇われの元塾講師の動画と、公的機関の展示、常識的に考えて信頼度が高いのはどちらですか?city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/ed…
アキラが24日にサハリン南部のブッセ湖から北上し、26日にEP地点に到着しました。途中、海上で休息していて、画像は25日17時にアキラから届いたもの。渡り途中に海上で休息する様子を初めて見ました。#SwanEyes pic.twitter.com/LyjiZQfUlt
返信先:@sum7777777sum他3人ダメ押ししましょうか(笑) ススキは「日本全土で見られるが,サハリン南部を北限とし」とありますね。 尚、樺太(サハリン)南部のユジノサハリンスクでさえ、ススキが生える春〜秋は日平均気温・平均最低気温ともに道内各地(稚内・名寄・根室・陸別 etc. )よりも数℃低いようですねぇ。 pic.twitter.com/i5sFt8ikFh
違います 「日本人の直接の先祖である【縄文人】」 ではありません ちなみに縄文人とは時代区分なのが歴史学の常識 metsoc-hokkaido.jp/saihyo/pdf/sai… 日本列島が弥生時代を経て古墳時代を迎えた 5世紀頃、 オホーツク文化がサハリン南部、道北 北端に進出、7世紀からオホーツク海沿岸沿いに網走、知床に拡大
返信先:@NoMoronsAllowed残念ながら最新の科学研究では、アイヌ人より先に日本人の直接の先祖である縄文人が北海道に住んでいました。 その価値が認められ、2021年7月、北海道北東北縄文遺跡群は、世界遺産に登録されました! #北海道北東北縄文遺跡群 #北海道 #世界遺産 #アイヌ人 jomon-japan.jp
返信先:@nOwGIK32ND41047他2人こんにちは~、お久です、おにぎりさん。 私は、12世紀末に滅亡した奥州藤原の残党が鎌倉幕府の追手から逃れるためにサハリン南部に逃亡、そこで擦文文化人とオホーツク文化人が融合しつつあった集団と接触し共存。または融合。その塊が先エンチュウ(骨嵬)ではないかと考えています。↓
知床観光船事故 捜索 遺体発見 DNA鑑定 搬送 民間船により国後島へ日本が遺体を引き取りに来るか ロシアの民間船が日本に遺体を引き渡しに行くか提案。 ロシアの提案を日本外務省が拒否し続けたのでロシアは妥協し サハリン南部のコルサコフ港にて 海上保安庁巡視船「つがる」 に遺体を引き渡す。 pic.twitter.com/7dDIJes5t3
「サハリン南部のアイヌ住民も、一八五六年の二千人からその世紀末に千五百人へと減少した。 ここでアイヌたちは、日本人への親近感を抱いていて、主食も米に依存していた。一八七五年に島から日本人が追い払われた時、八百人のアイヌが、日本人とともに 海峡を越えて北海道に渡り」 史実は繋がる。 pic.twitter.com/yRKTq40wnH
樺太シリーズI 【樺太土人移住の動機】 明治8年。千島・樺太交換條約の成立後 北蝦夷地(樺太)から日本に移民したエンチュウのお話を写します。 ●日本を選んだ理由 ●場所請負人との相互関係と信頼 ●ロシア紅毛人からの暴行 ●迷いと決定 北海道アイヌ協会『北海道アイヌ保護政策史』昭9(1934) P99
返信先:@ymtco「北方領土出身のロシア人が米国永住権を申請する際に、出身国を日本と記すよう米国務省の規定にロシアが反発。 米国務省HPに『歯舞群島、色丹、国後、択捉各島で生まれた人は日本出身。サハリン南部で生まれた人はロシア出身と記入』と注意書き有り…米国務省が正しい。 sankeibiz.jp/macro/news/201…
・19世紀初頭 1804年...『辺要分界図考』/近藤重蔵 内臓抜く→30日程洗いながら乾燥<この期間に親族集まり棺作る。失敗して腐らせると作業した者に賠償させる>→棺の屋根に日本の神社の屋根にみられる「鰹木」と似たものあり→サハリン南部では30日程、サハリン中部・奥地では3年ほどして墓地に葬る
④現存しない未知集団のミイラ習俗継承説 サハリン南部において、現存しない未知の集団が持っていたミイラ習俗が、後のエンチュウのミイラ習俗に繋がったとする説、11世紀以降のオホーツク文化人や擦文人の動向から考えると可能性は低いのではないか。
14世紀初頭以降、【骨嵬】集団を支援し、サハリン南部に残存していた元オホーツク文化人【14世紀初頭以降のエンチュウ形成に占める割合が多かったと考えられる】との意思の疎通にはあまり問題がなかったのではないかと感じられる。当然、和語(上代日本語,大和言葉)とは言葉が通じなかった。
その目的は捕獲したラッコ<高級品>、アザラシ、アシカ等、その毛皮をサハリン南部を経由して大陸との交易に利用した。言葉に関しては、蝦夷語(擦文語)にオホーツク語の【抱合語】が被さった言語形態であったのではないか。(続く
そして、【日ノ本】(日の出の方向にある)なのだが、道東や南千島に住む部族集団であったのかと。サハリン南部と道東を繋ぐ、オホーツク文化時代からの北海道オホーツク海沿いの「海の道」ルートで【エンチュウ】と連なっていたと推察。(続く
「骨蒐」という集団の前線集団は、12世紀末~13世紀中頃までに、サハリン南部へ進出した奥州藤原の残党(奥州藤原の一部残党:落ち武者であるが戦闘能力は高い)が、11世紀以降サハリン南部や大陸との交易に関与しつつ往来していた擦文文化人(元々物質的に和人文化が基盤)と利害関係が一致、(続く
鈴谷式土器<撚糸圧痕文などの文様で続縄文土器につながる>の年代:(サハリン南部・北海道北部より出土) <放射性炭素年代の測定> ・サハリン南部(紀元前4世紀~紀元6世紀頃) ・北海道北部(紀元1世紀~紀元6世紀頃)