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わかりやすいのは間違っているからわかりやすい場合もあり 考えてみれば手元の本に「脱構築」はあるはずだと調べると案外ない. 丸山圭三郎『ソシュールを読む』,橋爪大三郎『はじめての構造主義』にないのは驚いた. あったのは小阪修平…確かに「ずらす」との説明がよくあった.で,魅力をいだかなかった pic.twitter.com/Vrv7GPWQsH
フランス文学者の丸山圭三郎は、「自分の興味のあることを掘り下げていけば、必ず興味は広がっていく」と述べていた。彼はそうした広がりを「知のマグマ」と呼んでいた。 裏を返せば、広がっていかないのであれば、それは深掘りが足りないということでもある。
中世政治思想史家ブライアン・ティアニーはかつて歴史家が神学を学ぶことの重要性を説いたが、その顰みに倣って言えば、政治思想史を学ぶ者は文学史や詩学も学ぶべきだと痛感している。人文学的知とは全て地下茎でつながっていて、茫漠と広がってゆくような学びを心がけなければいけないのだろう。
ハッキリと言っておきますが、僕は丸山圭三郎氏の唯言論をとるので、トランスジェンダーへの差別には断固として抗する立場です。 差別ではなく区別だと言ってる人たちは一切信用しません。 生得的性別なんていう幻想を信じてる人たちは、ただの能無しだと思っております。
ソシュール研究の大家といえば、多くの人が丸山圭三郎を思い浮かべるだろう。ところが日本にはもう一人の大家、それも世界的に評価された大家がいたのである。それが小松英輔である。horagai.com/www/semiotic/s…
「「本を読んで何になる」という問いもよく耳にする。「本を読まないで何になる」とやり返す人もいる。しかしこの問いと答えのいずれもが含んでいる「何のために?」が、本を読む喜びをはじめから奪ってしまっている」(丸山圭三郎『言葉と無意識』講談社現代新書、P231) amzn.to/4aOMtng
4月25日は、言語学者・丸山圭三郎の誕生日。 「どんな行為にも〈目的〉を立てねば気がすまない表層のロゴスは、すべての行為を〈手段〉におとしめてしまい、いかなる現象にも〈意味〉を探そうとする表層のロゴスは、人びとをまじめにさせ息づまらせる。」(『言葉と無意識』講談社現代新書、P231) pic.twitter.com/h7Sbi7wO1V
ところが本質的問題は、個々の母音ではなく母音体系、ひいてはその言語の音韻体系が、また個々の単語の意味やそれがおかれる位置の変化ではなくてその言語の意味体系や文法体系が、"全体として"どう変遷したかということなのです。 丸山圭三郎
ソシュールの言った言語の体系は、全体があってはじめて個が存在するものであり、そこでは独立した個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他の要素との相互関係のなかで、はじめて個の意味が生ずるような体系なのです。 丸山圭三郎
元外務省の佐藤優氏が言うには、中国語は実務言語なので大学の教養課程で単位を出すのはおかしいらしい。中国人と会話するにはいいけど、アカデミックなコンテンツにアクセスできない言語であると。それに対して、フランス語とドイツ語は学問への扉を開いてくれる。フランス語は丸山圭三郎のソシュール…
丸山圭三郎の岩波セミナー『ソシュールを読む』を受講していたとき、ポール・ニザン『アデン アラビア』を読んで感銘のあまり1回サボった。「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」と始まる記述に呆然となった。あんな無邪気なことはいま可能だろうか
2.認知言語学 Haiman (1980)の解説。Saussureや丸山圭三郎などの古典、Kant, Quineなど西洋哲学の論文からの引用もあったので、難しかった。Quine (1951)は、実は意味論の授業で詳しく紹介されていたらしい。結論「意味論と語用論は、境界線がfuzzyなだけで、両極はきちんと分けられる。」
九州大学には言語学という専攻分野があったとは幸せなことだと思う ソシュール研究者 丸山圭三郎はフランス文学の専攻であったのだ それでも「現代思想」に記事を掲載していた頃は学外からも学生達が集まり教室の窓から数十人単位で人がこぼれていた あの頃の構造主義・記号学・言語学人気は懐かしい
返信先:@MakoKoto831ちなみに勤務校の仏文にもいらしゃった時期があります。一時期は、英文で吉田健一、仏文で丸山圭三郎、独文で生松敬三、そして私の所属である哲学専攻は木田元がいました。スター選手揃いです。
前田英樹氏の「解題」はじめて読んだ。『丸山圭三郎著作集 第Ⅰ巻 ソシュールの思想』(2014年)すでに品切は残念。単行本も入手不可。 iwanami.co.jp/smp/book/b2579…
そもそも人間は、他の動物や生物たちとは違い、生まれつき「本能が壊れた(つまり文化的欲望に従って暴走する)生き物」(丸山圭三郎)です。その危険な暴走に歯止めをかけるには、他の生き物のような自然界と絶対的に調和できる生得的本能が人間にはないわけですから、残るは「理性」しかありません。
「直感(本能)に従うことが大切」。 その前にご説明しておきたいのは、私たち人間は、動物とは違って、肝心のこの直感(本能)の部分が正しく機能していないという点です。丸山圭三郎は、このことを上手く表現していて、人間のことを「本能が壊れた動物」と呼んでいます。
また、動物や自然は「大いなる輪」(=宇宙生態系、アカシックコード)の「沈黙の監視者」とも呼ばれ、「本能が壊れた生物」(丸山圭三郎)である人間が、その壊れた本能の代わりに作り出した文明的欲求によって無軌道かつ無差別に自然と生物の調和の輪を破壊し、世界に致命的な崩壊をもたらさないよう