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河上麻由子『古代日中関係史』。倭の五王の時代から、5回の遣隋使、15回の遣唐使、さらには派遣後まで、500年間に及ぶ日中間の交渉の軌跡を実証的に描き出す一冊です。本書は、第33回濱田青陵賞および第7回古代歴史文化賞(優秀作品賞)を受賞しました。 pic.twitter.com/O1ISekm3BA
返信先:@starview1231他12人そして5世紀になると倭の五王は宇佐八幡宮に大本営を置いて、別府温泉♨で負傷兵を治療回復させて半島派兵を繰り返して広開土王碑に刻まれ、継体は筑紫君磐井の乱をキッカケとして阿蘇外輪山🌋邪靡堆に西遷して、百済支配を確かなものにしたわけです。
倭の五王は誰ですか? 仁徳天皇(395年~427年)、履中天皇(428年~432年)、反正天皇(433年~437年)、允恭天皇(438年~454年)、安康天皇・雄略天皇(455年~489年)。 この年代と『宋書』の倭王関係記事との照合から五王比定を試みます。 pic.twitter.com/dS4WaZI1b3
でもその後、魏が滅びて、台与は晋に朝貢するんだけど、それも滅びて五胡十六国 倭の五王(おそらく勃興中の河内王朝)はどこに朝貢すればよいんだか、右往左往。宋やら遼やら主に南朝系の国に使者を送るんだけど、良い返事もらえず 北魏は正統とみなされてないから朝貢できないし
『倭の五王』のほうも読んでいたので、併せて面白かったな。 今の感覚では「大王」や「天皇」というと威光満ち満ちているように思ってしまうが、古代においては豪族コントロールに苦労していたというのがよく分かった。
河上麻由子『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』読了。おもしろい!一気に読めてしまった。五世紀から数百年の間のことを、使節派遣という観点で流して見ると、歴代天皇の意図や当時の国家間交渉のクールさというのがよくわかる。語り口もダイナミックでよかった。
倭の五王を後に天皇に比定している動きがあるけど、いずれにしろ河内王朝(そのうちの3人は実在してないだろ)が5世紀に勃興していて、中国の諸王朝に倭王として認めてもらおうと右往左往しているうちに、王統断絶して滅びた
それで倭の五王は北魏には朝貢しておらず(鮮卑っていう遊牧民だからであろう)、南朝の六朝にバラバラに朝貢して、平西将軍等の地位を各王朝に要求したけど、一段下の安東将軍の地位しかもらえず、倭国の王として認めてもらえなかった 中国も正統王朝が決まってなかったから、そらそうなる
台与の時代には魏が滅びて、どうも晋に朝貢したみたいだし 晋は呉も滅ぼして、一瞬だけ中国統一したけど、そのあと崩壊して五胡十六国になる 女王国崩壊から倭の五王と言われる空白の時代は明らかに中国の混乱に連動した動き 宗主国が消えたから、倭国も再びバラバラになった
→もちろん記紀は貴重な古伝承でありその物語の記述は尊重すべきだが、こと編年に関しては記紀が食い違う以上、書紀の編年を信じることはまったくできない。 だが九州王朝説みたいに倭の五王と記紀の天皇を並立した別々の存在とも考えられない。やはり記紀の天皇の誰かではあろうが書紀の年代記述を→
倭の五王を天皇のことじゃないかと気付いてあてはめをやった最初の人間は松下見林で 讃=履中天皇 珍=反正天皇 済=允恭天皇 興=安康天皇 武=雄略天皇 とした。その後の現在に続く論争史の中で多様な説があらわれたが「五王と天皇は別々の存在」とする説を除けば、アテハメ系の諸説は→
にもかかわらず宋書や梁書は読まれてたのに倭の五王は完全に無視して天皇のアテハメはしてない。これも理由があってのこと twitter.com/hoshisora_c/st…
書紀には(引用の形であるにせよ)卑弥呼は出てきて、神功皇后のことだと示唆されてる。むろんこれは奈良時代の推測であって史実ではなかろうけども少なくとも奈良時代の知識層は卑弥呼を問題視してなかったと考えられる
現地大和軍将軍らが百済王を指名しましたが 日本に人質の百済東城王は雄略天皇(倭の五王の武※南朝宋追認)が筑紫軍付け 一度百済王朝は南下高句麗に滅ぼされたが 雄略天皇(倭の五王)が百済熊津王朝を再興し(人質東城王に筑紫軍付) その時南朝鮮に派兵された大和軍(古墳時代)が南朝鮮に前方後円墳を作る pic.twitter.com/tFb8vXhdft
一月から35冊ほど読んでいるのだが、よく記憶に残っている本とそうでもない本がある。『蘇我氏の研究』やら『倭の五王』やらは自分の関心が強いのもあって、面白かったなあとふと思い出す。あとは『イラク水滸伝』だなやっぱし。
返信先:@gausnoteiri他3人❌倭の五王が望んだのは将軍職 倭の五王は国内で他の豪族に対する権威付けや朝鮮半島内の支配権の裏付けを宋から取りたかったんですよ。 「倭王」も当然望んだけども、認められない事もあった。 実態と違う場合や、政治的理由等で認めなかったんでしょうね。 続 twitter.com/gausnoteiri/st…
返信先:@sono51dmNtCZKU9他3人う〜ん、でも帥升や卑弥呼は倭国王として、タリシヒコや足利義満は日本国王として朝貢した。百済や勃海も国王として朝貢してきた。国王としての封冊を望んでの朝貢なんですよね。倭の五王が望んだのは将軍職だからナァ〜⤵
返信先:@sono51dmNtCZKU9他3人う〜ん、でも帥升や卑弥呼は倭国王として、タリシヒコや足利義満は日本国王として朝貢した。百済や勃海も国王として朝貢してきた。国王としての封冊を望んでの朝貢なんですよね。倭の五王が望んだのは将軍職だからナァ〜⤵
返信先:@gausnoteiri他3人倭の五王は宋に下ったんじゃなくて、自分たちの権威を宋に認定してもらっただけなんじゃないですか? 朝廷から征夷大将軍を授かるようなもん。 twitter.com/gausnoteiri/st…
返信先:@nOwGIK32ND41047他3人帥升は倭国王として漢へ朝貢し、卑弥呼と壱与も倭国王として魏に朝貢した。ところが倭の五王は倭国王としての地位を放棄して宋の将軍になることを願い出た。倭国と大和と日本が同じならば、倭の五王時代の日本が宋の一部ということになる。宋に下った倭国と神武以来の大和王朝が異なることを願う。
返信先:@hoshisora_c他1人将軍号ですか!?考えても見なかったですね。東夷の将軍号といえば、 355 高句麗王釗の征東大将軍営州刺史楽浪公(燕) 372 百済王餘句 鎮東将軍領楽浪太守(晋) が早い方ですが、それより1世紀以上前の倭に将軍号とは?(出典はいずれも『研究史 倭の五王』巻末とじ込み年表)
三韓征伐凱旋(皇位内戦で応神天皇即位) 皇別大和軍支配南朝鮮での活躍(葛城襲津彦は新羅による秦韓地区封鎖の弓月君ら救出※一部第2皇別葛城国造忍海鉄定住)※葛城襲津彦姫嫁ぎ先仁徳天皇陵に秦土木技術で参加 南朝宋追認倭の五王時代※雄略天皇武は人質東城王に筑紫軍付け熊津朝再興南朝鮮前方後円墳 pic.twitter.com/TzUJZVecst
返信先:@nOwGIK32ND41047他3人帥升は倭国王として漢へ朝貢し、卑弥呼と壱与も倭国王として魏に朝貢した。ところが倭の五王は倭国王としての地位を放棄して宋の将軍になることを願い出た。倭国と大和と日本が同じならば、倭の五王時代の日本が宋の一部ということになる。宋に下った倭国と神武以来の大和王朝が異なることを願う。
倭の五王の朝見以後は、中国人の認識は、倭人の国はヤマトだと統一される。 後漢書には、元はヤマイだが転訛した、と書かれている。 後代の引用はすべて邪馬台国だというのは、魏志倭人伝の邪馬壱が誤記だという証拠にはならない。 漢音で、ヤマイ、カマイ。 呉音で、ヤメイ、カメイ。 pic.twitter.com/R1ojdqnHny
返信先:@asatoshift他12人どに「族」も、父子継承連続がデフォルトでない時代です。400年前後以前。分かりますか? おそらく高句麗に大敗したことと、倭の五王遣使や漢籍受容で中国思想が入ってきたからでしょう。しかし実態はしばらく兄弟継承も残る。一方過去は理想化して改変
聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇は鑑真から菩薩戒を受けた これにより三人は仏教の信仰を主導する菩薩となって、仏教の加護を受ける身となった 参考:河上麻由子『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』」 amzn.to/3xNyJup
返信先:@mutturisukabe倭の五王を最後に中華天下から離脱して、足利義満を除き中華諸王朝と正式な国交を結ばなかった(臣下の礼を取り藩屏国とならなかった)から当然だと思いますよ 自国本土と藩屏国の史書になりますから かといって無視もしてないようですisc.meiji.ac.jp/~katotoru/2019…
▶ 河上麻由子2019『古代日中関係史 倭の五王から遣唐使以降まで』中央公論新社 期待のあまり、怖くて読み始められないくらいだったんですが、読んだら期待より何倍も面白い本でした。 読んどかないと、読んだ人の前で恥かいちゃうたぐいの本。 さらっと書いてるようでいて情報が濃いのもスゴい。
雄略天皇(倭の五王【武】最有力候補)まで。で、過去の見返してちょっと思ったけど、国譲り(天孫降臨)やら神武東征辺り、天つ神と国つ神の時系列がなんだか噛み合ってない気がする。うーん。もしや、これ...ひょっとして、やってるな?
倭の五王だ(違)
/ 史上初! 国宝 #挂甲の武人 とその仲間 5体勢揃い! \ 本日発表!今秋開催の #はにわ展 では、埴輪として初めて国宝となった「埴輪 挂甲の武人」が登場!…
倭の五王は誰ですか? 仁徳天皇(395年~427年)、履中天皇(428年~432年)、反正天皇(433年~437年)、允恭天皇(438年~454年)、安康天皇・雄略天皇(455年~489年)。 この年代と『宋書』の倭王関係記事との照合から五王比定を試みます。 pic.twitter.com/8jWKDlekhD
隋がもう少し頑張らなくて南北朝を統一出来ていなかったら 位置的な意味で陳に朝貢していた可能性は非常に高いのであり得た話 現に倭の五王は陳の前身たる宋に冊封してもらっていたし
本邦に大きな影響を与えた中国中世における大帝国は唐王朝でしたけど国号が唐じゃなくて陳だったら「大陳世界帝国」とか言われて本邦からは遣陳使が送られて唐瘡は陳瘡になって唐辛子は陳辛子と呼ばれて唐揚げは陳揚げ、唐古遺跡は陳古遺跡と書かれることになっていたわけですぬ (*ロωロ)ゞクイッ✧
教科書では、当たり前のように608年に留学僧・旻などが隋に派遣されてるけど 東アジア諸国が国家間交渉を通じて中国に留学僧を派遣したのは、596年の新羅僧・曇育が最初 参考:河上麻由子『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』」 amzn.to/3xNyJup