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「眠れる獅子」と言われ、「国土も大きく、人口も多いので、本当に目覚めたら、凄い力があるのではないか」と思われていました。その中国が、南京条約等によって欧米列強に植民地化され、領土を切り取られていったのを見た、日本の識者達には、「次は日本が同じ様な状況になる」という事が分かった訳で
🇨🇳実録アヘン戦争 #読了 #再読 イギリスさん茶の輸入で貿易赤字→植民地インドでアヘンを作って清に売る→禁止されてぶち切れ→戦争&南京条約で香港島割譲(1840年)擁護不能の絶対悪で草。 林則徐は钦差大臣(皇帝に全権を委任された臨時職)広州へは大名旅行せず質素に移動。英雄の規律すばらしい👏 pic.x.com/F1XIw2pn7m
1. アヘン戦争と香港の割譲 香港はアヘン戦争(1840–1842年)の結果として、イギリスに割譲されました。戦争はイギリスと清朝中国の間で勃発し、清朝が敗北。1842年の南京条約によって香港島が正式にイギリスに割譲されました。これにより香港はイギリスの植民地となり、イギリスの統治下に置かれる↓
島全体が世界遺産という鼓浪嶼 わたしの貧弱な語彙力では どんなに言葉を尽くしても このとてつもなく情趣にあふれた 魅力が伝わらないと思うともどかしい... そこには 南京条約により厦門が開港し 日本を含む諸外国が共同租界として この島に領事館や教会などの拠点を 作り置いたので pic.x.com/Yz980EjH1T
1840年、アヘン密貿易をめぐって行われたイギリスの中国に対する侵略戦争。 イギリスは清朝政府のアヘン投棄に抗議して開戦に踏み切り、勝利することによって1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得た。 ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となった。 pic.x.com/QqqywrA44w
1842【南京条約】 大運河を封鎖され清朝は戦意を喪失。交渉の末1842年長江南京沖の英軍艦上で和平条約調印。内容は①賠償金支払い、②広州・福州・厦門・寧波・上海の5港を開港、③香港島を英国に割譲、④公行貿易の廃止。アヘンに関する取り決めはなく事実上輸入の承認。pic.x.com/AnkSorgaMZ
返信先:@BCi2KrAVyYBI8aY他1人上の初版【清一统志】にもある様に、清王朝も中国と称してます。 元々昔から各王朝でも中国を自称してますが、近代国家的な意味で使用したのは阿片戦争の南京条約で、清朝=中国です。 中国人(私も含むが)からしたら、王朝は別国では無くて、各時代中国を支配している政府に過ぎないと言う認識です
第二次世界大戦の前に、日本は支那の中国国民党の国民革命軍と戦闘を繰り返し、支那事変と言われるが、日本人が支那に居留した理由を、理解していない 大清帝国が1842年に、アヘン戦争で敗れ南京条約でイギリスの上海租界を認め1845年からイギリス、1848年にアメリカ、翌年にフランスの租界が設置。