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大森荘蔵は、AIに意識があると認識したらAIは意識を持つようになるという。 人間が人間に対してするのと同じように。 だからもしかしたら、人間でもAIでも、そう大した相違は無いのかもしれない。 独我論と実在論の間を彷徨いながら独特の他我論を展開するサルトルで未来の性愛を考えるのも面白い。
この男は、大森荘蔵や野矢茂樹、柄谷行人、村上春樹などにも影響を与えたという。凄い男だ! この男がある断章集のなかで、詩について記している。 「もしも知性の角がむきだしになっていて、心という衣服を身にまとっていなければ、詩の急所は、とがりすぎということになる。」 何と傑作な物言い!
谷口さんが(悪名込みで)有名になっているのがTLから伺えるが、どうせなら(下のネタ文でも書いたが)皆谷口さんの議論自体を(出来れば哲学的に)もっと批判してほしい。 誤解をおそれず言えば、氏の議論は相当批判しやすい(議論が開けてる)と思う。 批判しやすさでは大森荘蔵(の議論)に匹敵するだろう。
こちら昨日の批判論が公開されるまでのやり取り、完全なネタです。興味のある方だけどうぞ。 批判論が公開されるまでの舞台裏ーとあるM氏の懺悔録ー|マンマのさんま Mk-2 @manma2020 #note note.com/manma2020/n/ne…
返信先:@Nr2YcdmDGE53729その昔、大森荘蔵先生が、「あのデイヴィッドソンがあんなに偉くなるとは思わなかった」と言っていたという噂も聞いたことがあります。確か彼の博士論文は古代ギリシャ哲学の論文だったと思いましたよ。
Google翻訳で半分くらい。脳と体が分離された状態で、私はどこ?、と問うなら(最初に出てくる話)、両方と答えるしかないのでは? #大森荘蔵 の本に似たような話があったような。#DanielDennett Daniel Dennett: 'Why civilisation is more fragile than we realised' bbc.com/future/article…
大森荘蔵の話は面白かった。私が見ている相手さんは、本当の相手さんとはあんまり関係ないよ、私が作り出した相手さんに過ぎないよ、といわれても「それはそう」という感じでそんなに面白くないけど、それに哲学的意匠を施す感じが面白かった。わざと難しく考える。
夢の内容を細かく記録しておくと、より鮮明な夢を見るようになる、って話もあるが、一年前のハナミズキの写真とか十年前の何とかの写真とか、そういうものを残しておくってのも、「時間が流れている」という感覚を強化するのかもしれん。だからこそ「時は流れず」(大森荘蔵)ってことになるわけでね。
返信先:@suna_kago時々、友人に「哲学に興味あるんだけど、どれも難しそうでどんな本読んだらいい?」って聞かれて困るんですよね。 とりあえずネーゲルの『哲学ってどんなこと?』とか大森荘蔵の『流れとよどみ』なんかを勧めるんですけど、スナヲさんだったらどうされますか?
しかし,体験できないとしても,そこにあって,それぞれ認知的差異は物理的差異を生み,物理的差異は認知的差異を生み,生み出されたそれぞれの差異は体験できる.見えないけれど,それぞれの差異は体験できる差異でもある.大森荘蔵の言葉を真似れば「体験できる表の差異」は即ち
働かせてもらっているヨガスタジオに、大森荘蔵の「物と心」が、置いてある。 さすがは、哲学学科の上司である。 昔、二十年前以上も、彼は、大森荘蔵の「時は流れず」を、読んでいた。 一貫している姿勢に、頭が、さがるよ。 ちょっと、読んでみたい本である。
『物と心』大森荘蔵ものごとは立ち現れるというのをこの前の地震で実感した。 『小さなものの諸形態』市村弘正 「夢の弁証法」「小さなな諸形態」 『「名づけ」の精神史』市村弘正 『開かれ人間と動物』ジョルジョ・アガンベン
わたしが英米哲学界隈やらあとは「中島義道」や大森荘蔵あたりに嫌悪感があるのは、べつだん本人の生がラディカルだからとかではなく、池田晶子氏に悪質な誹謗を対面時に浴びせていじめた挙句本人は楽しい思い出としてそれを回想しているのをかれの本でみたからである
有名な心の哲学者でも時間についてあまり論じていない人がいる。時間と意識が不可分なことは明白で、カント、フッサール、ベルクソン、大森荘蔵など多くの哲学者が双方を重ねて論じている。重要なメタレベルの問題をスキップするという手落ちが有名哲学者にもよくある。
事実は、世界其のものが、既に感情的なのである。世界が感情的であって、世界そのものが喜ばしい世界であったり、悲しむべき世界であったりするのである。自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。 (大森荘蔵『流れとよどみ』)
今考察している、「望む」「考える」、等の表現の意味には、非常に多くの哲学的困難が結び付いている。 だがそれらすべてを、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか」、という問に集約できる。 『青色本』ウィトゲンシュタイン/大森荘蔵訳
「この部屋には長さがあるか」と聞かれて、誰かが「もちろんあるとも」と答える。 彼は「無意味なことを聞かないでくれ」と答えることもできるのだがまた、「部屋には長さがある」は一つの文法的命題として使われることもできるのである。 『青色本』ウィトゲンシュタイン/大森荘蔵訳
生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。「彼の思い出」がかろうじて今残されているのではなく、「思い出」の中に今彼自身が「居る」のである。ある意味では、過去は過ぎ去りはしないのである。─大森荘蔵『流れとよどみ―哲学断章』その1─
植原亮先生の伝聞エピソードは本には記述がないと考えるので凄く関心深い。ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン氏(1908年)、ドナルド・ハーバート・デイヴィッドソン氏(1917年)、大森荘蔵先生(1921年)年齢が近い。確か丹治信春先生の『クワイン』でクワイン氏が大森先生を評して手強い人であると。
大森荘蔵先生(1921生)は米国留学の際にドナルド・デイヴィドソン(1917生)と知り合ったが、あとになって「あのデイヴィドソンがあんなに偉くなるとは思わなかった」と言っていたと聞いたことがある。若いときに会って年齢も近かったのよね。
大森荘蔵先生(1921生)は米国留学の際にドナルド・デイヴィドソン(1917生)と知り合ったが、あとになって「あのデイヴィドソンがあんなに偉くなるとは思わなかった」と言っていたと聞いたことがある。若いときに会って年齢も近かったのよね。
蓮實重彥先生が、大森荘蔵『新視覚新論』と廣松渉『世界の共同主観的存在構造』に言及したのは『反=日本語論』だったろうか。chikumashobo.co.jp/product/978448… 「ミシェル・フーコー『The Japan Lectures』をめぐるインタビュー」『群像』(2024年3月号)で若い研究者二名に触れておられたのでつい連想。
「哲学をやるというのは極端に言えば一種の病気で、健康な人間がちょっと気にするだけのことがどうしてとことん気になる因果な病気だとおとり下さっていいんじゃないかと思うんです。」 (大森荘蔵の言 より) 大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く』朝日出版社 1982
「ですから作曲家というのは、その意味では建築家とまた似てくるんじゃないですか、ある空間を作り上げるわけですね。一時的であるとしても。」 (大森荘蔵の言 より) 大森荘蔵+坂本龍一『音を視る、時を聴く』朝日出版社 1982
大森荘蔵『知の構築とその呪縛』は,ビッグネームの著作なので,ありがたいだけで読んでいる(=理解できていない)のが正直な所ですが,オッカムの刃の語りがとてもよいのです 「ひどく用が足りていない人が呪力や魔力を進んで招じ入れるのはまことに自然なのである」 pic.twitter.com/n6LTgXmXQh
「演奏される音は空間のある場所で鳴るものとして聞こえてくる/その抽象的運動が何かの形で無限に向かっての進行であるとき、例えば淵のない高みへの上昇運動や深淵への落下運動であったり果てのない低徊であるとき/人は崇高とでも呼びたいような感動に/世界の無限性に打たれる」〜大森荘蔵/時間と自我 pic.twitter.com/CkXhvJJbNU
この件にかんしてはむしろ、大森荘蔵が彼自身の発明したその私的言語(正確には私的語private word)を中島義道に適用した際に最初に誤適用をし、それが公的言語(正確には公的語public word))として広まったという可能性が考えられる。