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似たようなこといってるレスが大量についてるけど院号の「崇」や「徳」に怨霊鎮めの意味が生じたのは崇徳院からで、それ以前の「崇神」「仁徳」「聖徳」「称徳」「崇道」はぜんぶ関係ないよ
悲惨な最期の天皇は「崇」が送られるらしく ・暗殺された崇峻天皇 ・流刑となった崇徳上皇 ・流刑となった崇道天皇(早良親王) などの例が挙がるけども、壬申の乱で敗れた弘文天皇(大友皇子)には送られないのね
更にそもそも水主(宇陀主)の元は龍穴神社(雨乞い神事にルーツ) そこに神武が東吉野から桜実神社地域に山城創建 天照大神大和入り初降臨の地(戦勝祈願)は高天原(崇神朝神戸大神宮の贈名→下流で脇に阿紀神社※元伊勢はこの時篠畑神社に倭姫滞在←荒木田祖同伴※中臣天見通の孫の大荒) pic.twitter.com/8tDTTjTM5d
崇神・仁徳が居られるし…
悲惨な最期の天皇は「崇」が送られるらしく ・暗殺された崇峻天皇 ・流刑となった崇徳上皇 ・流刑となった崇道天皇(早良親王) などの例が挙がるけども、壬申の乱で敗れた弘文天皇(大友皇子)には送られないのね
ちょ、崇神
悲惨な最期の天皇は「崇」が送られるらしく ・暗殺された崇峻天皇 ・流刑となった崇徳上皇 ・流刑となった崇道天皇(早良親王) などの例が挙がるけども、壬申の乱で敗れた弘文天皇(大友皇子)には送られないのね
そもそも応神帝(架空)の時には大和に入れなくて浪速に都があった。纏向の王権もそれなりに武力あったので、簡単には攻め滅ぼせなかったのだろう。纏向の王権は崇神帝(架空)の地方王権でヤマトではない。神功皇后が筑紫島から東征したのがヤマトの始まり。ちなみに現天皇の血筋は継体帝から。
で、イザナギとイザナミは、神世七代の七代目なんだが、それは、孝霊天皇が第七代天皇だからで、で、実際の系譜では、 神武→綏靖→安寧→懿徳→孝昭→孝安 の直系六代の系譜があり、 垂仁天皇自身は、 孝元→開化→崇神→垂仁 となって、本来は、孝安の皇子が孝元だが、間に孝霊を挟みこんだ形。
日向三代は、垂仁が臺與の後を継いで王となったころに景行が日向に下向したからで、それは、臺與が狗奴國残党の出雲王統に国譲りさせた直後でもあるから。 ただ、垂仁ちとって、父の崇神(卑彌呼死後の男王)が不名誉な形で廃位となり纏向の御間(彌間)から追放され、磯城瑞垣宮に幽閉されていたのを、
崇神の時代から100年ちょいで、倭の五王は生まれていて、その時代は文字もしっかり使われていた時代。 で、それから200年で、天智、天武の時代になる。まあ、孝霊天皇の時代から500年で記紀が編纂された感じだ。 これほど鮮度の良い神話は、なかなかない。
2/2🇯🇵⛩️日本神話【天照大神】 この鏡は天皇とともにあったが、崇神(すじん)天皇の代に畏(おそ)れ多いというので分離し、笠縫邑(かさぬいむら)に移し、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)をして祀(まつ)られた。さらに、垂仁(すいにん)天皇の代になって
また近年まで外国人口を揃えて、日本人は一種欧米人に見得ざる謹慎優雅の風あり、といえり。…要は到る処神社古くより存立し、斎忌の制厳重にして、幼少より崇神の念を頭から足の先まで… minakatella.net/letters/gosiik…
A 畝尾は大和の中臣屯倉(米倉)管理→崇神朝に宇陀に神戸大神宮で派遣 B 丹比は河内の中臣屯倉(米倉)管理の中心的 宇陀4枚目⭕神武天皇大和で天照大神降臨の初の神籬(崇神天皇朝に神戸大神宮を贈名) 余談 ボランティアの人に資料館で中臣中心地聞く北窓指さし「そこ=畝尾社隣」て いや私は荒木田系て pic.twitter.com/r1fs4ia3Sq
返信先:@yakiimo_blue他1人闕史八代の天皇の妻の出自、無茶苦茶面白いですね。妻問い婚を想定すると、開化天皇なんて、河内で生まれ、丹後→河内→春日→葛城→春日と、近畿圏内あちこち行ってますからね。闕史明けの崇神は、河内で生まれ、紀伊→美濃→ヤマト(纏向か磯城)で、紀伊と美濃は同時に妻がいたらしいし。
下流メイン大化改新鎌足上流で大鹿島までは追認出来るが(荒木田はその崇神朝は天見通ですが) 春日大社神が多氏国造房総からきて 中臣は房総でなく大和の平岡中臣で調達で へんと思わないと追求しないと 古代歴史はおとぎ話に ⭕は忖度で無筆 朝廷が記紀で大鹿島を中臣と追認が唯一で房総系図ではない pic.twitter.com/MYmWcwY1BK
大和の大鹿嶋(5大夫で御送駅使で伊勢遷座完結し伊勢整備) その男子「中臣の大楯」が景行朝に房総半島に行き鹿島神宮社家(下流で香取神宮も両社家) で大和の先祖「大和の大鹿島」を房総で盛る姿が今 ※特記 多氏神聞勝(聞勝)は崇神朝に房総半島飛来(常陸仲国造=多氏)仲臣は東海湖子上が有名 中臣の大宗 pic.twitter.com/jRvoKCMqCf
返信先:@youken_kigさきほどの論文からは、王権周辺の人々にとっては、ミマとシキとはともにヤマトを深く連想させる名詞となっていそうと思われます。 崇神までの天皇の和風諡号を紀で確認すると第三代と第五代とでシキとミマが使われていてヤマトが使われていません。続く
で、オ乙ホ乙を、アヘ乙と発音しているのは、遡って卑彌呼の時代に活躍した大彦(オ乙ホ乙ヒコ)の後裔が、阿倍(アヘ乙)なのとも関係しそうだ。 阿倍氏は、北陸方面の豪族で、崇神天皇の時代に大彦(崇神の伯父)が四道将軍の1人として、北陸平定して、その地に大彦の子孫が国造として定着した。
後醍醐天皇が吉野でこのカエルを食し 美味と絶賛の®️ 吉野首は高倉下の男子系入る ©️神籬 この時に畝尾の山まで土器の土を取りに行く(後に卜占の中臣の本拠地畝尾から全国各地の中臣に広まる) 二枚目は大和政権後に崇神朝宮中の遷座で天照大神を降ろし場所神籬→檜原神社鎮座→巡幸元伊勢→伊勢遷座 pic.twitter.com/HKsASfP5h9
この方の主張はイデオロギーであって学問とは程遠いと思う 古代の継承法は兄弟継承が多い 応神以前は殆ど創作で神武は崇神の即位前の伝承といったところだろう 谷田川さんの定義を用いればこれは血統より血縁を重視した証拠に他ならない 従って万世一系は迷信でしかない pic.twitter.com/h01cw1RP9A
君、頭アホやろ?その理屈だったら元明・元正を出すまでもなく兄弟継承は血統ではなく血縁だから血統が終わることになる。そんなこと言ってるわけないことは考えたらわかるだろう。ゴー宣カルト道場は議論できないから世間からカルトだと言われてるのか。
この水は「はるか未来の民」をも思う「天皇の心」なのかもしれない…なんと「2000年もの間」田をうるおしてきた崇神天皇陵「驚愕の構造」講談社・現代media: 2024.05.22 #記紀古代史 gendai.media/articles/-/129… #ブルーバックス
神聞勝(崇神朝)-深湯主(垂仁朝)ー大鹿島ー3人男子の一人臣狭山ー烏賊津 さらに一人(景行朝)が房総半島飛来し鹿島神奉ず で 大鹿島ー®️大楯が大鹿島を先祖で重要視 ここに多氏の常陸仲国造の崇神朝に房総半島飛来が混入「多氏神勝聞」が連結か 荒木田系図の中臣天見通を拝借するしかないのか pic.twitter.com/XzVokW3bmY
普段は健常者と遜色ない振る舞いをしているヤ・シュトラさんが崇神所で石像の視線を判断するのに「あなたの目の方が都合がいい」と言ったり、ウリエンジェさんに夜空の様子を聞いたりと、私たちと違う世界を視ている仕草をされるとヴーッ!!! となる 言語化しにくいんだけど
孝元天皇は、3人とも河内だが、同時に3人だったか不明。ウツシコメとイカガシコメは同じ一族だったから同時かも。 開化天皇は、最初にいきなり丹波(丹後)の竹野媛だったり。次は河内のイカガシコメ、で、春日、最後に葛城とかなり遠隔地につまが、と言う感じ。 崇神も、紀國、美濃、ヤマト纏向。