- すべて
- 画像・動画
並べ替え:新着順
【韓国紙】広開土王碑の憂鬱な真実…日帝改ざん説の全貌 s.japanese.joins.com/JArticle/21955… 朝鮮では「広開土王碑の碑文改ざん説」が信じられている。この碑文には「日本が朝鮮半島南部を支配していた」とある 現在の中国領にあるこの碑を調査した中国人学者は「碑文に改ざんの跡は無い」と改竄を否定 pic.twitter.com/MT4MWnBG9m
返信先:@dekabudou好太王(広開土王)碑の拓本は日本人が改竄したって主張してたくらいだから、そのまま読めば何と書いてあるか知っているはずなんだけど。 x.com/Daishi_hundred…
1972年、在日朝鮮人の学者、李進熙が日本にある好太王(広開土王)碑文の拓本が改竄されたものだと主張するも、2006年に中国人学者が改竄されていない事を証明。 「倭が百済と新羅を臣下にした」という碑文は朝鮮人にとっては都合が悪かった。
返信先:@nonbeiyasu広開土王碑に倭の韓半島支配が書かれていると、「日本軍が書き変えた」と言い出し、書き変えていないことが分かると今度は誤読だと言う。 言い訳がどんどん苦しくなるな。
広開土王碑は現在どこにありますか? 現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1,800文字が刻まれています。 広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。 pic.twitter.com/yDLBU1gHt6
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。 高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。 pic.twitter.com/sARSs1Dkru
縄文〜近世までの海外との交流を幅広く扱っていること、展示の動線がやや曖昧で途中に個別テーマ展示が挟まれるので、頭の中を整理するのが大変だった(苦笑。印象として、さすが国立だけに展示物の質が高い&ほぼオリジナル品の展示であることか。個人的ツボは縄文火焔土器と広開土王碑拓本?であった pic.twitter.com/5FZkefkVTy
今は広開土王碑というとんでもない鍵もあり、神功皇后は実在したなら390年頃が確実で238年に親魏倭王となった卑弥呼とは時代が離れすぎている。 もし書記に配慮して神功皇后が女王時代をまとめたものと仮定するなら2-4世紀というかなり長期に数々の女王達が君臨することになると思う。
返信先:@starview1231他12人そして5世紀になると倭の五王は宇佐八幡宮に大本営を置いて、別府温泉♨で負傷兵を治療回復させて半島派兵を繰り返して広開土王碑に刻まれ、継体は筑紫君磐井の乱をキッカケとして阿蘇外輪山🌋邪靡堆に西遷して、百済支配を確かなものにしたわけです。
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。 高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。 pic.twitter.com/z657lAvWgo
広開土王碑は現在どこにありますか? 現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1,800文字が刻まれています。 広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。 pic.twitter.com/yQf89hNEYl
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。 高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。 pic.twitter.com/bcDaFvOlMS
広開土王碑は現在どこにありますか? 現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1,800文字が刻まれています。 広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。 pic.twitter.com/ovTolKteL5
広開土王碑は現在どこにありますか? 現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1,800文字が刻まれています。 広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。 pic.twitter.com/NkDmQ0tA0D
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。 高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。 pic.twitter.com/oAvbFL4dLC
「64城1400村を獲得した」も含め、日本の古い広開土王碑の理解に立脚した説明との印象を受ける。そもそもこの碑は、王が遠征を繰り返し、国外の住民を捕虜にして自国へ連行し、歴代高句麗王の墓守として働くようにさせたことをたたえる碑。領土拡大が主題ではない(故に後燕との戦いなどには言及なし)。
好太王カードのテキストにある「新羅・百済などを服属させ」は問題のある表現だ。広開土王碑の記述を参考にしたものと思われるが、あれは高句麗側の一方的な視点によるもので、それをうのみにすべきではない。新羅はともかく、百済が高句麗に服属したことを裏付ける文献史料はない。
広開土王碑は現在どこにありますか? 現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1,800文字が刻まれています。 広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。 pic.twitter.com/HR6IXpqUnr
広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。 高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。 pic.twitter.com/MU5CRrBG0S
本日は倭の五王と広開土王碑についてお勉強。 まず東アジアと日本の関係をもう一度おさらいする必要があるなぁと思った。 それから雄略天皇の時の勢力がすごかったことがわかった。 【古墳時代】11 古墳時代ってどんな時代?倭の五王と広開土王碑【日本史】 youtu.be/olrq_QqY7tI?si… @YouTubeより
返信先:@IN63WjOdiB4408否定して破壊行為をするので資料も燃やされます、広開土王碑が残ってるのは奇跡に近いです。現在の朝鮮(北朝鮮・韓国を含めて)の領土を確定(当時「明」に承認)したのは李氏朝鮮4代王世宗(セジョン)1397年5月7日 - 1450年3月30日でハングル文字も世宗の時代から開発されました。
返信先:@KatsuyaShiraiおはようございます。 うろ覚えで申し訳ないのですが、「広開土王碑」を見学した時のガイドさんのお話では守墓人の集落があり「碑」を守る為の一族が存在したと考えられると。
399年に倭軍は新羅に侵攻するが高句麗が軍を出して400年に高句麗軍と倭軍が戦うが高句麗軍に敗走して追撃を受けて敗北してしまう。 この逸話は中国の吉林省にある「広開土王碑」に書かれている この時に高句麗軍には倭軍にはない騎馬隊がいたと… pic.twitter.com/A6TKKJyjT5
いやいや、韓国の言う通りにすべき。 ①いかに日本が韓国に尽くし尽くし尽くしてきたかを記載する事(下記参照) ②朝鮮人の祖先は縄文人即ち日本人である事(DNAから確定的) ③竹島が日本領土である事 ④古代朝鮮は任那を始め日本の植民地だった事(広開土王碑等多数) すぐに教科書改訂すべきだ。 pic.twitter.com/Ztl4FITNZW
韓国政府 日本の教科書検定に「深い遺憾」表明=「歴史直視」求める ...。 毎年毎年ホントしつこいな。 いい加減怒るぞ。 m-jp.yna.co.kr/view/AJP202403…