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『戦国パズル!!あにまる大合戦(racjin.co.jp/pazani/)』で現在開催中の【期間限定ステガチャ】の『ホワイトデー後白河天皇』のデザインを担当させていただきました!ホワイトデーのお返しは甘~い団子じゃよ🍡 #パズあに pic.twitter.com/YJC5pIFncf
松尾大社(京都市西京区)と日吉大社(滋賀県大津市)は、大山咋神(オオヤマクイノカミ)を主祭神として祀る神社として著名であるが、大山咋神とともに後白河天皇(上皇・法皇)を主祭神として祀る東山区の神社は? #山王権現 #古事記 #流造 #京都文化博物館 #松尾大社展 #みやこの西の守護神 pic.twitter.com/m7sN4XQzuH
美福門院は鳥羽法皇から荘園の大半を相続し最大の荘園領主となっており、その意向は無視出来ません。 元々、後白河天皇の即位は二条天皇即位までの中継ぎとして実現したものだったからです。 信西も美福門院の要求を拒めず、二条天皇が即位すると後白河院政派と二条親政派の対立が始まりました。 pic.twitter.com/dGPSsvjzC9
後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣。 作戦の場では平清盛と共に先制攻撃・夜襲を主張し、この案が採用され保元の乱は後白河方が勝利しました。 乱の後、信西は国政改革推進のために清盛や平家一門を厚遇しています。乱の後に清盛は播磨守、平頼盛が安芸守、平教盛が淡路守、平経盛が常陸介と pic.twitter.com/awe0cTpdXZ
昨日、 #ふるほん住吉 さんで見つけました。現在は絶版のようです。 桓武天皇から後白河天皇の時代までを描いてあります。 語り口が個人的に心地よく、読みやすいです。 桓武天皇の項がとても興味深い。 #光る君へ pic.twitter.com/iKBoIYTDAS
1192年4月26日(建久3年3月13日)第77代後白河天皇が亡くなりました。享年66。 鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第四皇子で、諱は雅仁。 異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に渡って院政を行いました。 #院政 #源平 #平家物語 pic.twitter.com/ImgYn4DTPA
1192年の今日、後白河天皇の忌日。 第77代天皇。その治世は戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権した。新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。 pic.twitter.com/rE2lyIZDt0
4.崇徳天皇 日本の第75代天皇。後白河天皇との内部抗争に敗れ讃岐に配流となり、罪人として崩御さえ朝廷から無視された悲劇の帝。大怨霊大魔縁となり祟りをなす。 のちに四国の守神として信仰を集める。 新デジタル・デビル・ストーリーでは、 惑星黄泉に封印されていた。 pic.twitter.com/9ZkMirrEUj
藤原信頼は平安時代末期の公卿です。後白河天皇の寵臣として絶大な権力を揮いましたが、同じく上皇の近臣・信西と対立します。 信頼は源義朝と平治の乱を起こし、信西を斬首すると一時的に朝廷の最大実力者となります。 しかし、二条天皇一派と組んだ平清盛に敗北すると六条河原で斬首されました。 pic.twitter.com/8ueBBBiLAE
鳥羽天皇皇后 璋子 花園西陵 花園東陵から徒歩3分 藤原璋子は崇徳天皇、後白河天皇、統子内親王の母 白河上皇の養女となり、その子の鳥羽天皇に嫁ぐのだが、第一皇子崇徳天皇は白河上皇の子だと言われ、後の第四皇子後白河天皇と争う「保元の乱」にとつながっていく pic.twitter.com/0oZWlDAC8x
鳥羽天皇皇女 尊称皇后 統子内親王 花園東陵 花園駅から徒歩3分 住宅街にある御陵 統子内親王は同母弟で1歳下の後白河天皇の准母(母代わり)として皇后となった pic.twitter.com/L0yZzMmek8
後白河天皇は譲位したくなかったのですが、既に崩御していた鳥羽法皇の遺命もあり、鳥羽法皇の皇后で荘園の大半を相続していた美福門院も守仁親王が天皇になる事を強く望んでいました。 1158年(保元3年)後白河天皇は譲位して上皇(太上天皇)となり、守仁親王が第78代二条天皇として即位します。 pic.twitter.com/u3Q22eoWPm
1156年7月29日(保元元年7月11日)崇徳上皇はこれまでの自身への仕打ちや後白河天皇の即位に反発。同じ頃、反逆者の疑いをかけられ全てを失った藤原頼長と手を組んで【保元の乱】を起こします。 信西は味方の武士・源氏の源義朝の意見を受け入れ、夜襲をかけ崇徳上皇方を先制攻撃で討ち破りました。 pic.twitter.com/R9eI30RbEg
しかし、近衛天皇の生母で鳥羽法皇と確執のあった崇徳上皇の息子を次期天皇にさせたくない美福門院は、信西と共に雅仁親王の第一皇子で自身の養子・守仁親王を推挙。 幼い守仁親王の補佐・中継ぎとして、守仁親王の実父・雅仁親王を第77代後白河天皇として即位させました。 pic.twitter.com/G8eydNqZYN
世を儚んで出家した信西でしたがその後、雅仁親王(=後の第77代後白河天皇)の乳母・藤原朝子を後妻とした事で次第に権力を握ります。 1155年(久寿2年)鳥羽法皇の第九皇子・近衛天皇が若くして崩御すると、後継を決める議定が開かれます。次期天皇候補は崇徳上皇の息子・重仁親王が最有力でした。 pic.twitter.com/FT0OcOcK6V
新日吉神宮(京都市東山区) 後白河天皇は保元3年(1158年)に上皇となったが、院の御所を法住寺に定めると、まず、皇居の守護神山王七社の神々を比叡山東坂本の日吉大社から迎えて祀った。 永暦元年(1160年)創立。 #新日吉神宮 #御朱印 pic.twitter.com/F2jsxmRfdC