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徳富蘇峰は、大日本言論報国会の会長として、国策に協力し、軍国日本を大いに鼓舞した。戦後、ある新聞記者から、蘇峰は皮肉を込めて日本の敗戦についての感想を求められた。 蘇峰曰く「戦争は半分負けて、半分勝った。大日本帝国は滅亡したが、アジア諸国は独立したではないか。」 まさに大東亜史観。
まず発端が、山縣有朋の書記で西南戦争を取材した福地源一郎で、輪をかけたのが徳富蘇峰(熊本出身のジャーナリスト)。 日清〜日露あたりでどんどんジャーナルが規制され 熊本の地盤が地盤なので右に寄り、 「売らねばならない」新聞各紙が西南戦争を「戦意高揚」に利用していったのね。
ポーツマス講話会議で日本側は当初賠償金を要求していたが、戦争継続が難しいことは自覚しており交渉が難航すると要求を取り下げた。 しかし『万朝報』『東京朝日』『大阪朝日新聞』はじめほとんどの新聞はこの妥協案を軟弱と批判。 条約に賛成したのは徳富蘇峰の『国民新聞』くらいであった
記者クラブの原型も日清戦争。従軍記者の本格動員も日清戦争。前者は伊藤内閣がずっと責められている条約改正問題で世論が対外硬一色となり、徳富蘇峰の国民新聞が伊藤内閣批判を強めた。この為開戦後軍機として発行停止等強硬策に出たが、開戦と同時に対外硬より挙国一致になり軍事報道一本化の流れ。
⇒しかし、#徳富蘇峰 の『国民新聞』が焼き討ちされたのは、最初は戦争を煽りながら戦争の厳しい状況を「政府の内部情報」で知った後では一転して「講和」を支持するという「御用新聞」的な性格に対して民衆の怒りが爆発したためであった(『司馬遼太郎の平和観』170~171頁)。⇒ pic.twitter.com/z7cIJBPWSL
三章 「巧みな『物語』制作者」徳富蘇峰と「忠君愛国」の思想 一、「テロ」と「特攻」の考察と新聞報道の問題 二、「自殺戦術」の正当化と徳富蘇峰の『大正の青年と 帝国の前途』 三、沖縄戦の正当化とナチズムの考察の欠如 四、「国家滅亡の危機」と大石の「一億玉砕」の思想
■徳富蘇峰 1863年熊本生。ジャーナリスト。弟は徳富蘆花。76年同志社英学校に転入学。87年民友社設立。"国民新聞"を主宰し思想家として活躍。1924年山王に移住。43年熱海に移住。晩年は"近世日本国民史"の完成に力を傾けます。57年没。新島襄・八重との関係は大河ドラマ"八重の桜"で描かれましたね。 pic.twitter.com/CVwduGM9kY