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返信先:@zero_hisui祈って働かなきゃ、あと写本も作らないと 托鉢修道会はガチ でも修道院から 「なんかシュワシュワする酒出来た」 ってシャンパンやリキュールが生まれるから面白い 偶然できたシャンパンを初めて飲んだドン・ペリニョンは 「星のような味だ!」 と、いかにもおフランスな表現をしたとか
LAXXXVII15:その理由は、この時期16世紀初頭には「托鉢修道会はすでに内部改革が開始されていて」、中でもア穏修士会が厳格な会だったからとのことである。 この項では以下、この時期どの托鉢修道会各派も内部で議論があり、もう一度厳格な方向に向っていると各派の状況を述べる。 ('24.9.20)
LAXXXVII14:ルターは「アウグスティヌス穏修士会所属」とあるところから彼は平民出身であるようだ。しかもこの修道会は『四大托鉢修道会の一つ』であるとされる。ルターがこの修道会を選んだのは『恐らく他の修道院よりは規律が厳格であったからであろう』という。 ('24.9.19)
発展しました。然し、中世におけるキリスト教中心主義の発展に伴い、カトリック神秘主義におけるキリストの様々な状態に特に注目が集まり、カルメル修道会を含む様々な修道会が注目し、その後フランシスコ会などの托鉢修道会が注目を集めました。クリスマスのキリスト降誕のシーンの増加と共に。
また「異端派」と関連して女性の存在が書かれている部分があった。このため「托鉢修道会」は女性の教育に力を入れたと書かれていた。これは後世の「魔女」との共通点があると思われた。これも作業仮説の段階であるが。 ('24.9.5)
岩波文庫版の『修道院』では「異端派」を説得し、教皇中心の教団に復帰させたのが「托鉢修道会」の始まりであると概略的に書かれている。 貴族出身の修道士はキリストに倣い使徒的生活のために修道院での共住生活を行った。 (つづく)
この岩波新書版『修道院』は以前にも途中まで読みメモを取った。未読の第7章『修道士における使徒的生活の復活』から再開した。岩波新書版のものも「托鉢修道会」について書かれている。 このそれぞれ視点の違う2つの『修道院』を読むことにより、少なくても全体像をつかむことが可能である。(9.5)
LAXXXVII00: LAXXXVI~では、講談社版の『修道院』の第11章『中世末期の修道制』を取上げメモをとってきた。この第11章と第10章は中世の修道院制度の中でも「托鉢修道会」に関して書かれている章である。 さらに LAXXXVI42:からは岩波新書の『修道院』を取上げた。 (つづく)
LAXXXVI93:修道会の所属修道院は、ドミニコが亡くなった時約20院であったが、1234年には約100院、13世紀末には550院を越えたとのことである。 次の項『アッシジのフランチェスコ』ではもう一つの托鉢修道会である「フランチェスコ会」について書かれた項である。 ('24.8.29)
LAXXXVI92:この『托鉢修道会の誕生』の項の最後では、ドミニコによる『托鉢修道会』の興隆について記している。 なお「修道会の最初の総会は1220年の聖霊降臨祭ボローニャで開かれ組織の基礎が固められた」という。ドミニコは翌1221年に亡くなり、ボローニャ大学に埋葬された。 ('24.8.28)
「剣と清貧のヨーロッパ」で騎士修道会に関する記述はここで終わり、次からはヨーロッパの「都市化」をテーマに托鉢修道会やドミニコ会の話に移る。 こちらもこちらで大変面白いのだが、やはり騎士修道会に関する記述が抜群に面白い。 なので、世の創作者たちももっと騎士修道会を出して異教徒を(ry