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京都旅行備忘録 同志社大学今出川キャンパスの西門近くに建つ「薩摩藩邸跡」の石碑。京都御所の北側に位置するこの場所は島津久光の上洛後に薩摩藩が設けた政治的な重要拠点。同志社を設立した新島襄の妻八重の兄である会津藩士山本覚馬が鳥羽伏見の戦いで幽閉されていた場所でもある。 pic.twitter.com/R0h3kYU9hA
ヴァルトラウト・マイアーが「ヴァルトラウテの物語」を歌うのを聴くと、《八重の桜》で新島襄を演じたオダギリジョーを思い出します(関係ねえ)。#ワーグナー生誕祭 pic.twitter.com/1PP3l1eSVq
八重の桜の新島襄ことオダギリジョー。 こんな風に愛されたい、私の中のNo.1じょーです!!!
ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』のオダギリジョーになりたい人生だった - kansou kansou-blog.jp/entry/2024/05/… いい文章だったなあw
如意輪の滝 若王子神社から「新島襄・八重の墓」へと向かう山道の途中からも見ることが出来ます。 かつてここにあった「天竜茶屋」という茶店の一部であったそうで。天竜茶屋が廃業した後も、このお滝だけは残ったようです。 pic.twitter.com/0Zhy1wiKoY
本日は雨の為ランニングできずに昼ランしました。場所は京都御苑を一周です。その通り道で同志社大学の創立上海である新島襄さんと奥様の八重さんの住居を見学して、戻る途中で京都で一番最初の洋菓子電話で夏限定オレンジゼリーを購入しました。 たまの昼ランもいいですね❗️ pic.twitter.com/YnOvRnbbBO
■ 新島襄 同志社創設者。1843年上州安中藩士・新島民治の子として神田生。60年に軍艦操練所入所。64年函館から渡米。75年帰国後に山本覚馬らの協力で京都に同志社英学校開校。76年覚馬の妹・八重と結婚。89年同志社大学設立の募金活動で全国行脚中に心臓病で倒れ、療養先の大磯・百足屋旅館で病没。 pic.twitter.com/APhE5x3VU8
久しぶりに大河ドラマ「八重の桜」を観直しました! 会津戦争で女子でありながら鉄砲を持って戦い「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれた八重が明治時代に新島襄と出会い同志社大学を作る話。 綾瀬はるかさんの熱演もあってめちゃくちゃおもろい! 観てたら同志社大学に行きたくなった笑 pic.twitter.com/2RJIIwVujR
■徳富蘇峰 1863年熊本生。ジャーナリスト。弟は徳富蘆花。76年同志社英学校に転入学。87年民友社設立。"国民新聞"を主宰し思想家として活躍。1924年山王に移住。43年熱海に移住。晩年は"近世日本国民史"の完成に力を傾けます。57年没。新島襄・八重との関係は大河ドラマ"八重の桜"で描かれましたね。 pic.twitter.com/CVwduGM9kY
弟、父、そして尚之助まで亡くなって落ち込む八重に掛けた新島襄のセリフ😢 #八重の桜 pic.twitter.com/i4XEeKDVCE
/ 大河ドラマ 好きなセリフ💬 \ 大河ドラマの名台詞は、観終わった後も忘れられない大切な言葉になることがありますよね…! 皆さんの好きな「大河ドラマ」のセリフは何ですか? コメントか引用RTで、「作品名」と「セリフ」を教えてください! 皆さんの好きな作品を世に広めましょう✨
NHK大河ドラマ"八重の桜"。八重と新島襄の会津への帰郷。従妹とその母との、再会と再びの別れには、子の幸せだけを願って生きた母、一途な会津女の情念が凝縮されていた。襄が言う、"会津に教会を造る、傷ついた人が息をつき荷物を降ろせる場所を"。太宰の"津軽"を思い、おのが故郷を思った。
今夜から始まる大河ドラマ「八重の桜」。楽しみ。母校同志社の校祖新島襄先生の妻八重さんの話。襄は彼女を米国の友人にハンサムな女性と書き送っている。当時の日本人にはなかなか理解されなかった女性だが、今なら理解されるでしょう。レディファースト、夫をジョーと呼びすてていたらしい。
産経朝刊13p、同志社抄。来年のNHK大河ドラマ"八重の桜"は、同志社の創立者、新島襄を支えた妻、八重の波瀾万丈な人生を描く。1845年、会津若松に生まれ、幕末の戊辰戦争では、女丈夫として銃をとり、襄との結婚後は、同志社の新時代を開拓。晩年は、赤十字者の篤志看護婦としても活躍。