ある人の晩年は一種の社会観といふやうなものに囚はれたし、ある人は道徳的になつたし、ある人は病的になつたし、ある人のごときはまた極端に宗教的になつた。しかし、すぐれた文学は『生』そのまゝに物を見得るといふ時に産れたものであるといふことを忘れてはならぬ。 『新片町より』序／島崎藤村

吾儕は『人』としてこの世に生れて来たものである。ある専門家として生れて来たものではない。文学の道路も先づここから出発せねばならぬ。 『新片町より』序／島崎藤村

文学を愛好して、その意味を知り且つ味ひたいと思ふと、よく言つてよこして呉れる読者がある。さういふ人達に読んで貰ひたいと思つて、この小冊子を編んだ。〔略〕種々なる境遇に処し、種々なる場所に住み、種々なる生涯を過しつゝある男女の知人へ、この通信を送る。 『新片町より』序／島崎藤村

『生』そのまゝに――生き、愛し、死ぬる『生』そのまゝに物を見得るといふ時は、人の一生にとつて、さう沢山はない。それだけ尊い時だ。それだけ自然な時だ。斯ういふ時が、一生に僅かしかなくても、その人は意味多き月日を送つたと言はねばならぬ。 『新片町より』序／島崎藤村