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古い記事だが、私は二十代後半頃、菅直人氏が当時「尊敬する人物」に高杉晋作をあげていたのが不満で、菅氏に直接「市民派なのになぜ高杉なのか、江田三郎や市川房枝じゃないのか」を聞いたことがある(続 「暴走老人」菅直人の危険性を48年前に見抜いていた有吉佐和子 jbpress.ismedia.jp/articles/-/687…
江田三郎が市民ネットワーク社会を構想し77年に結党した社会市民連合に、菅直人や石井紘基らが集結。死後、長男江田五月先生が引き継ぎ社会民主連合を結成、野党連合政権実現のための闘いは日本新党主導で失敗、民主党政権で実現したが崩壊した。国民市民のための民主主義を根付かせなければならない。 pic.twitter.com/Yjzjg6HlOT
【憲法記念日】45年前の江田三郎の市民ネットワーク社会構想、市民社会連合は早すぎたのだろうか。日本の時代も社会も追いつかなかった。50年間変わらなかった日本。しかし現在その可能性はお上からではなく草の根から芽生えつつあると信じたい。当時社会党書記長として構造改革論争に敗れた江田三郎。 pic.twitter.com/fajIOhSowl
安保闘争で学生の盾になり守った江田三郎議員達の姿と重なる。 今では、こういう大人が永田町だけでなくメディアでも全く見なくなったなぁ…。幼稚な不祥事を起こして、内々にもみ消して内々に悦に入ってる姑息で落ちぶれた大人達ばかり… #選挙に行こう #選挙に行って政治を変えよう #投票に行こう pic.twitter.com/e3Fpfpv4XW
ただ社会党最左派中核の社会主義協会も向坂逸郎門下と太田薫派で分裂。向坂系でも党改革の中心人物だった山本政弘副委員長ら現実路線派と社青同を中心とした路線死守派で内部分裂していました。山本副委員長は徐々に向坂派と距離を取るようになります。江田三郎の名誉回復もこの頃でした。 pic.twitter.com/Vjm51jTLCv
返信先:@tersachan他3人江田三郎の歴史観については、興味深い視点も含まれているように思われますね: «イギリス労働者のチャーチスト運動は、決してブルジョアジーの民主主義のために血を流したのではなかった。自分たちが国の政治に参加するために議会制民主主義の確立を要求したのである。»
返信先:@Booskachan_Ver2東工大の理工学部に現役合格して、学生運動でも極左も民青も批判して活動して、弁理士の資格取って、友人と特許法律事務所作って、市川房枝さん師事して彼女を議員に押し上げて、江田三郎や田秀夫に請われて議員になった人 薬害エイズ問題やライ予防法の廃止など、そこら辺の世襲議員とはレベルが違う
河上民雄の回想録を読んでいるが、江田三郎を団長とする社会党一七年ぶりの訪米団の仕切りをやったのだが、その条件が「山本正に全てを任せること」というのが興味深い。下田会議で当時無名のラムズフェルドと一対一で話したこともあったようだ。コロンビア大学留学はパッシン教授が関わっていた。