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返信先:@DDH182miraiうっすら存じ上げております...ここに(岩国)来たの!とか思うなどしました... (実は幕末好きで過去創作など嗜んでおりました...尊王攘夷派では長州藩、佐幕派では会津藩(新撰組)、奥羽列藩同盟で長岡藩(河井継之助氏)と仙台藩(からす組)が好きです)
これは本当に「自分は今どう生きるべきか」を自身に問いたくなる映画だと思う 河井継之助の熱き心が心に突き刺さって、リーダーとしてのあるべき姿をまざまざと考えさせられた #峠最後のサムライ #役所広司 #松たか子 depaoji.tokyo/touge-m/
『峠』(司馬遼太郎)読了。今回で3周目 長岡藩の河井継之助。時勢に囚われることなく自分を徹底的に律し続けた男。カッコ良すぎる。『燃えよ剣』と並んで定期的に読み返したくなる 私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。(あとがきより) 最後の侍の生き様を刮目せよ! pic.twitter.com/7hCZ6hDGvF
返信先:@yoshika1105おひたしぶりです。 新潟のは、関東風に言うと「笹団子」なのですが…。新潟出身の自分の知り合いの方々は「オゥ、久しぶり。ちまき食うか?」みたいに気軽に出してくれてました。おそらく河井継之助氏もこういうの齧っていたんじゃないかな…。
昨日話題になった司馬遼太郎の「峠」。題名が地味だから読まないでいたが超オモロ!3回くらい読んでる。 というか未だにもやる部分もある、すなわち河井継之助のしたことは是が非か?両方の意見があり安易に片付かない 読んで思うとこあったら教えて下さいリプでもDMでも amazon.co.jp/dp/4101152403/…
『継之助の読み方』 『河井継之助の生涯』より 河井継之助もしかりで「ツグ」か「ツギ」かで問題になったようだ 文献に振り仮名はなく、著者は継之助の身内が何と呼んでいたのかを尊重した 継之助実妹・牧野安子、甥・根岸錬次郎氏は『つぐのすけ』と呼んでいたとの事 pic.twitter.com/opPCRNXfBp
福島県側標識には新潟方面通行不能でした🙇只見49方面には252河井継之助記念館もあり駐車場🅿️も👀289の最終地点❌無理でしたね💦新潟側の標識はまだ笠堀と書いてありますが一応準備はされているみたいでいずれは剥がされて多分只見⁉️なんか刀で斬られたような山🗻が途中に👀‼️東北~北陸交通範囲が👀‼️ pic.twitter.com/83CXCvdTiz
毎年📺️NEWSで大人気新潟三条(旧下田村)289八十里越体感バスツアー🚌東京から新幹線🚅で県外からも参加する人もなんといるみたいですよ?河井継之助の歴史や伝統、文化、記念館、ファン多いらしいですね‼️50年以上工事豪雪地帯開通予定は2026~2027年秋位❔自然災害関係で延びる可能性が❓️
アオーレ長岡って市役所が入ってるオシャレ建物。居心地が良い。時間があったので河井継之助記念館見て来た。入口にガトリング砲が置いてあって撃たれるかと思った。 pic.twitter.com/7jzN7TmFSa
『常在戦場』 『河井継之助の生涯』より 長岡牧野家九代で 老中となった『忠精』は『常在戦場』を書家に命じ 謄写させ広く藩士に配った 山本五十六(長岡出身)もしばしば揮毫 「たたかひの 庭にあるとぞ 常に只 おもうこころを たもて もののふ」 pic.twitter.com/X3dCthJ4Wv
『長岡牧野家系図と参州牛久保の壁書』 『河井継之助の生涯』より 牧野家遠祖成定が 永禄5年、牛久保 城の諸臣出仕の間 に掲げたもので別名「御家風十八ヶ条」 pic.twitter.com/8vjAjtmHHQ
返信先:@onakoneka1サダさんの琵琶湖1週や新潟TVコラボ動画見て思いましたが毎年📺️NEWSで大人気50年以上工事豪雪地帯新潟県三条市289八十里越体感バス🚌ツアーにサクラさんと誰か1人参加して河井継之助の歴史を体感しYouTubeで北陸富山🗾PRチャンス‼️新潟来るみたいだしTVコラボ、シバケン様が何か情報しってるかも?
河井継之助記念館おもしろかった。クソ高い金額で買ったガトリング砲のレプリカもある。映画『峠』も見たし歴史動画で学んでたので現場きて興味深かったぜ #長岡市 #河井継之助 #河井継之助記念館 pic.twitter.com/3znUl1WZZV
『北越十一藩』 『河井継之助の生涯』より ①越後11藩分布図 ②戊辰時における 北越11藩主及び祿高と幕府との関係 とその向背 ③北越戦況と東西 両軍の争地 pic.twitter.com/c4ZBXGFGM3
『河井継之助の生涯』 継之助は文政十年 元旦生まれ ①『長岡城正月、藩士参賀図』 正面三階櫓が本丸 天守閣に代わる ②③『継之助揮毫』 王陽明作「渓水」 pic.twitter.com/CB6tjd2qpv
只見駅の珍しい駅の漢字🔍️使っているところあるのかな❔まあ仕方無いが只見線は景色や風景は最高だか1日の本数が‼️大通り出ると252と289ちょうど着いた頃🚃💨が発車して住民の人達が✋を振ってなんか言っていたな🙌📺️NEWSでも話題に周辺には店屋、昔の伝統の河井継之助記念館、ファン多いからな👀 pic.twitter.com/XNYpljkpay
返信先:@D09067523125823私は日本人ですよ。 先祖代々日本人。 ついでに言うと士中二番隊・白虎隊や河井継之助には特別な思い入れがあります。 支那は現代では差別用語なのでやめましょう。
『河井継之助系図』③ 河井継之助家の通字『秋』は二代秋高からであり武平太左衛門次男とある 家祖忠右衛門が『俊秋』とありその『秋』を通字として用いたのかはわかりません🙇♀️ pic.twitter.com/5DEBkXRVbT
『河井継之助系図』② 初代『代右衛門信堅』→二代代右衛門「秋高」→三代代右衛門「秋恒」→四代代右衛門「秋紀」→五代『継之助秋紀』と なる この系図だと四代、五代の謚が共 に「秋紀」とある? pic.twitter.com/hs0evaOj4u
『河井継之助系図』① 河井家総本家『清左衛門』は『本多下総守俊次』の世臣。寛文年中、牧野侯の側役となり 四十石で仕えた 弟忠右衛門は謚を 俊秋。家禄百石 長男金太夫(俊平)は 祿百三十石 次男代右衛門(信堅) は御勘定頭者頭格、郡奉行を勤め百四十石 継之助はこの代右衛門を初代として五代目 pic.twitter.com/FpRxm5X1FD
また無念やるかたない河井継之助が帰路立ち寄り、長岡藩決戦の意を固めた場所でもあり、長岡の歴史の一つの重要な折り目としても、大変興味を引かれる場所です。 pic.twitter.com/9L73C2hrnc
#慈眼寺 1868年5月2日、時の藩主の嘆願書を持った長岡藩家老河井継之助が、戦いを避けるために、小千谷に本陣を構える官軍の軍監、岩村高俊(精一郎)と講和談判を行い、談判決裂となった場所として知られています。 pic.twitter.com/HVTbWj38Ws
書籍紹介 『河井継之助の生涯』 安藤英男著 新人物往来社 昭和62年6月15日発行 河井清左衛門の弟忠右衛門(禄百石)の次男代右衛門(新潟町奉行百四十石)を初代として五代目が『継之助(秋紀・祿百二十石)』 妻は椰野弥五右衛門の娘すが 河井邸にあった継之助遺愛の『喬松』は号『蒼龍窟』の由来 pic.twitter.com/kt5l3NFgF2