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幕末伝説で好きなのは山川浩の謎スキル ・戊辰戦争では遅滞戦闘を展開、新政府軍の会津侵攻を遅らせた ・既に敵包囲下にある会津若松城に、奇策を用い堂々の敵前入城、防衛指揮官に(1回目 ・西南戦争では籠城する谷干城への救援として、西郷軍包囲下にある熊本鎮台にまたもや堂々の敵前入城(2回目
返信先:@HisatoSo中倉さんは西南戦争の際、西郷軍への 参加を断られたとの事ですが、 それまでの間に 幕末三大人斬りの 1人、桐野利秋(元 陸軍少将 前の名は 中村半次郎『人斬り半二郎』から 指南されていれば話に浪漫が 加わりますね。 昭和の武蔵、剣豪警察官、 昭和の剣聖 とも言えるのでしょうね👮 #榎木孝明 pic.twitter.com/SrPrxhNVkw
返信先:@Sola_liberty離島の乞食が彼らに給付された通貨を使う時点では、西南戦争時に西郷軍が西郷札で物資を徴発したのと同じなんですよね。 商品やサービスを提供しない離島の乞食に徴発権限を渡して、どうやって社会が豊かになるというのか…って簡単に分かりそうなもんですが、 反緊縮「お金が増えたヤッター!」…
語り継がれている 会津の薩摩への恨みは深く、西南戦争に多くの元会津藩士が「官軍」として参戦して、西郷軍と戦ったのは歴史の皮肉と言える 鶴ヶ城攻防戦錦絵 攻防戦再現 二本松少年隊顕彰碑 pic.twitter.com/yjuNZartNk
返信先:@mh0905yuuuuu1他1人個人的には、 熊本城は緩く包囲しとくだけで先に進めば、各地で勝手に不平士族が蜂起し政府が対応に追われて、国内が酷いことになってたと思ってます。 ただ、それやると西郷軍含めて蜂起士族が現地徴発始めて、最終的に西郷さん晩節を汚した完全な悪人にされそう。
ちなみに天守群の焼失理由は諸説あり 失火 西郷軍内通者の放火 鎮台による自焼と 今もって定説は無い様ですが 防衛上砲撃の目標になる高層建築を 鎮台自ら焼き払ったという説がやや有力だそうです pic.twitter.com/MY7ah5pQTv
西郷軍の目的地は長崎で船を徴発し上京や 陸路を不平士族を糾合しつつ上京など諸説ありますが 田原坂で足止めされ後方の鹿児島や 八代へ政府軍が上陸し挟み撃ちとなります やむなく宮崎方面へ転戦するも 先細りとなり最期は鹿児島の城山へ 強行突破で帰郷し隆盛の自刃をもって役も終息します pic.twitter.com/e7CrDucnoD
延岡の無鹿町から大峡町に跨る和田越という峠は、西南戦争最後の激戦地で、「和田越の戦い」とも言われっちゃが。西南戦争で西郷隆盛が直接戦闘指導を行った唯一の戦闘とされるげな。この戦闘で西郷軍は敗退し、俵野(可愛岳の麓)へ撤退したっちゃが。因みに付近に大友宗麟の「牟志賀」もあるとよ。
西郷軍は約三倍の兵で包囲し降伏勧告をしますが 守将の谷干城は門を固く閉ざし籠城 西郷軍は徴兵制で質が劣る鎮台兵と侮り攻め立てますが 熊本城は近世城郭でも屈指の巨大構造物で 物理的障壁を突破できず早々に攻撃を中止 一部の部隊を残し主力は北上 南下する政府軍と田原坂で激戦となります pic.twitter.com/TFPEFyRJVe
延岡に宿泊し、朝散歩しました。 ここは西南戦争で西郷軍が明治政府軍と激しい戦闘を行なった地です。 西郷どんは政府軍と戦いましたが、本当の敵はその後ろにあるグローバル勢力でした。この戦いはまだ終わっていない。#日本を取り戻す その誓いを戦死された御霊への玉串にして捧げました。 pic.twitter.com/Eh6rb2oYSd
延岡の無鹿町から大峡町に跨る和田越という峠は、西南戦争最後の激戦地で、「和田越の戦い」とも言われっちゃが。西南戦争で西郷隆盛が直接戦闘指導を行った唯一の戦闘とされるげな。この戦闘で西郷軍は敗退し、俵野(可愛岳の麓)へ撤退したっちゃが。因みに付近に大友宗麟の「牟志賀」もあるとよ。
返信先:@ToshihideMinami十津川と薩摩は、似てる。 紋所もですが、 新政府薩摩閥と西郷軍の西南戦争での二分。 伏見十津川屋敷詰め側と十津川郷での 洋式、和式での皇室忠誠への二分。 かなり、痛ましい内部分裂してる事。 近藤勇は隊士に『薩摩の初太刀を外せ』と喚起してますが十津川郷士も強すぎるので喚起してたそう。
明治時代には城郭も本来の用途として機能し得るとので、不平士族の反乱も起きてる事を考えると 放置するわけにもいかなかった、って文脈を完全無視してるなこの記事 西南戦争で西郷軍が熊本城落とせず進軍を阻まれたのだって、皮肉にも江戸幕府が島津を封じ込めるための策が有効だったって事だし
熊本城、復旧したら行ってみたいですね 西郷軍を跳ね返した城壁も気になるところです
【忘れない】本日4月14日で熊本地震から8年 2016年4月14日に発生したマグニチュード6.5の前震を始まりとする一連の地震。約28時間後にはマグニチュード7.3の本震が発生。この地震で被災した熊本城では、数十年にわたる復旧の様子を観光資源として公開する「見せる復興」に取り組んでいる。
返信先:@XuanYong73316他1人支持母体がない政党だからこそ🇺🇸🇰🇷の大統領のように任期が来たらキッパリとトップを退かなければまずいのかもしれません 西南戦争の時に政府軍は仕事のために戦っているが西郷軍は西郷隆盛のために戦っていると後の首相の山縣有朋は言っていました 🇰🇵もそうですが個人のための組織になってしまいます
返信先:@heisukekaoringそうなんです。私の母のお祖父ちゃんお祖母ちゃんは江戸時代生まれ。戸籍にも明記されています。で、関わったというか、お祖父ちゃん自体は幼子だったのでしょうが、実家が西郷軍の移動の準備とかしたらしい。子供の頃に当時支給された西郷札とか、本家の刀傷(私の郷里でも斬り合あった)見たです👀
宮崎県えびの市の小屋敷城。 歴史は未詳ですが「小屋敷」という地名が残ることから、中世豪族の館だったのではないかと思われます。 ここも西南戦争では西郷軍の陣地として使用されたとのことです。 家畜飼育施設によって城域は一部削られており、「立入禁止」の看板があるので、登れませんでした。 pic.twitter.com/2NMswuDNpS
宮崎県えびの市の稲荷城。 南北朝時代に攻められたという史料が残っているそうです。 形態は中世城郭そのものですが、ここは西南戦争時に西郷軍の陣地となり、西方の溝園城の政府軍陣地から砲弾を撃ち込まれたとのことです。 (昨日紹介した溝園城は、政府軍の台場でした) pic.twitter.com/F8w7x1YUxC
返信先:@Yotsubach242他1人なれなかったんですね。そこで軍人ではなく警視庁巡査として旧新選組とか会津藩士とかを募集し(彼らは薩摩への恨みもある)、警視庁抜刀隊(新撰第一旅団)を編成して西郷軍士族と対抗させたのでした。
◤試聴音声公開◢ 『#幕末動乱美少女伝』 第6章 第3幕『西南戦争』より 【西郷軍】 西郷隆盛 (CV.#黒木ほの香) 桐野利秋 (CV.#富田美憂) 村田新八 (CV.#立花日菜) 【DLsiteにて好評配信中】 dlsite.com/home/dlaf/=/t/… pic.twitter.com/Ee5eUfaBTi
昨日の西郷どん 過去に山の方で「西郷軍宿営地」を何箇所か見かけたのだが、現宮崎県北部で決戦後に鹿児島まで山を越えて敗走したからだったんだな。 鹿児島の資料館じゃ西郷隆盛の功績の紹介が主体だからか、他県地域での西南戦争の被害は詳しく語られてないように思う。歴史は語り手次第。 pic.twitter.com/i1Ew1PXQsN
#今日は何の日 ●国際トランスジェンダー認知の日●オーケストラの日●エッフェル塔落成記念日●1877年 - 西南戦争: 大分県中津で西郷軍に呼応した士族が叛乱。●1970年 - 赤軍派が日本航空機よど号をハイジャック。●1998年 - 山一證券が自主廃業し営業終了。 桜咲く年度末。 kotobanomahou.com/today.html