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野木城城主として同地を領したので、一族には大野木姓を名乗る者もおり、『紹巴富士見道記』に見える大野木義元は『尾張志』に立項されている連歌師塙茂元と同一人物という説がある。 直政は、塙右近大夫の子、同国春日井郡比良村の人で、大野木村を領した。妹の明鏡院智勝尼は織田信長の側室で、塙氏
▲ブー爺『群馬県立歴博:古河公方見学会』①満福寺:猪苗代兼載の墓 足利8代将軍義政の連歌などの師匠:連歌師猪苗代兼載。明応7年(1498)頃、猪苗代兼載が上杉顕定亭・木部隼人佐家などで発句を詠んだ(「 園塵第三」)。上野国長尾忠景の子で総社長尾氏6代当主長尾修理亮顕忠の家で歌を詠んだ。 pic.twitter.com/BzGOVV0yls
丸子宿から山側へ進み「新九郎、奔る!」にも登場する連歌師・宗長ゆかりの吐月峰柴屋寺を拝観 月見会を愉しんだ庭や家康公手植えの槇、開山堂には宗長とその師・宗祇像、今川氏親像を納めた厨子、宝物庫には宗長ゆかりの文福茶釜(分福茶釜ではない)も pic.twitter.com/FbfHGY2U1d
当たり前ですが紹巴や昌叱、心前らプロの連歌師とくらべると愛宕百韻の光秀の付句は良く言えば素朴で率直、悪く言えば稚拙な感が否めません。光秀連衆のほかの連歌の時はあまり感じなかったのですが。ンン…幽斎の連歌はどうでしょうか。そつない印象ですが…精読してみようと思います。
武田家の金堀衆⛏️、今まで雑認識でいたが調べたら、連歌師宗長の日記には1516年の曳馬城攻めで井戸を尽く枯らし降伏させたという記事、武州松山書捨では1562年に松山城の堀を崩したという記述、1571年の深沢城攻めの働きでは籾子150俵と諸役の免除を授かった武田家朱印状が残るのでガチで活躍してた👀
世阿弥は義正に義正に諜報者として仕えました。俳世松尾芭蕉もまたしかりです。芭蕉の生まれた家は伊賀国で代々連歌師としてきこえた名家でした。当時は馬子でも連歌をやったほどの連歌ブームでしたから、連歌師はいろいろな階層の人間と接触する機会も多く、情報を集めるには格好だったわけです。
ふと思ったけどけんまくんPSPじゃなくてゲームボーイ世代(昭和生まれ)だったら絶対メガネっ子になっただろうな わたしもさすがにゲームボーイ実機触ったことないけど白黒だもん…… そこから大正に生まれてたら、明治に生まれてたら、とか考え始めて時代を遡って連歌師のけんまくんの妄想してた😂
大慶くん鍛刀の際からずっと抱えてた案件を一つまとめてツイート完了。 てか、北野天満宮の源氏物語関連展示で伊達政宗辺りの方々から突如として聞かされた猪苗代家の名前出てくるとは思わなかったわよ、と言う話。 室町期〜戦国時代の連歌師の役割についてもなんか再考ですね…
兼与の祖?(4〜5代前?)の猪苗代兼載については、宗祗(東常縁から古今伝授受けた人)のあとに北野天満宮にあった「北野連歌会所」(幕府による連歌師の統括機関)の宗匠になったようですね。猪苗代家と里村紹巴もこの連歌会所繋がりかと。源氏物語関係だと紹巴は『紹巴抄』出してますし。
広島市東区の尾長天満宮に参拝、御朱印をいただきました。江戸時代のはじめ、京の連歌師・松尾甚助が霊夢により、尾長山奥の菅大臣山に鎮座していた天満宮を当地に遷したと伝えられ、歴代藩主も参拝したそうです。 pic.twitter.com/3nDLVSpwvT
長野市の隣、千曲市にある「武水別神社神官松田邸」をご紹介します。敷地内には復元された建物群、館内には武田・上杉の古文書、室町中期の室町幕府奉公衆の蜷川貞相や連歌師の宗祇の和歌も展示されております。室町好き、歴史好きの方は是非ご来館ください❗️ ⚠️週末のみの開館です。 pic.twitter.com/eiU4cqAR0B
誠仁親王一行にまぎれこんだ逃亡者が出ることを警戒した光秀 は 馬や乗り物の使用を禁じたため 誠仁親王は徒歩で移動しなければならなかった 同行していた連歌師里村紹巴がどこからか粗末な荷運び用の輿を調達した 誠仁親王だけは途中からそれに乗った
西山 宗因(にしやま そういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。宗因と号し、別号として一幽・西翁・梅翁・野梅などがある。宗因は相手によって号を使い分けていたとされる。
れることとなった。 その後度々上洛したが、永正15年(1518年)和泉国堺に移り、その地の紅谷庵に住み没した。 「古今和歌集古聞」・「源氏物語聞書」など講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては、宗祇、宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などが伝わっている。歌集・句集に
5/4(土)は、室町時代中期の連歌師、歌人で、出家もされている肖柏(しょうはく)師の御命日。(1527年。旧暦:大永7年4月4日)臨済宗黄龍派禅僧の正宗龍統(しょうじゅうりゅうとう)師から禅を学ばれました。大広寺(現・大阪府池田市)後園の泉福院に来棲され、草庵を結ばれて、これを[夢庵]と称されました。
日本三景のひとつ天橋立。 天気にも恵まれ、海に浮かぶ美しい松原を観ることができた。天正9年、前年に丹後を平定した細川藤孝・忠興父子は、明智光秀や茶人の津田宗及、連歌師の里村紹巴を招きこの天橋立で茶会を催している。 本能寺の変が起こるのは、この茶会の翌年かぁ…。 pic.twitter.com/qC7bxhSVsU
静岡旅③ 天柱山 吐月峰柴屋寺 今川氏に仕えた連歌師柴屋軒宗長ゆかりの寺🧐 天柱山や丸子富士を巧に取り入れた借景庭園は国指定名勝 #柴屋寺庭園 #国指定名勝 pic.twitter.com/GVUky7UtYa
本日紅梅殿にて、連歌の会が催されました。 北野天満宮には、室町より江戸時代まで、連歌会所があり、宗砌、宗祗ら有名な連歌師が奉行を務めてきた歴史がございます。本日の連歌会も、今も残る連歌所の井戸の水で墨をすり、その墨で上の句下の句が交互に賦されおりました。 #京都 #北野天満宮 #連歌 pic.twitter.com/VKawYJoGGn