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返信先:@gwKFFkU9xY75135さすが、現代の超親友な二人ですねw 青い炎の炎色反応は確か、銅? どうなら銅鐸、銅鏡、銅矛… あとは青銅……聖堂? 粉塵爆発は発火性の高い金属粉 アルミニウムとマグネシウムが主…… pic.twitter.com/tu4aHoi141
歴史が大好きで、 銅鏡、銅鐸、銅矛、銅剣、銅戈、石棺、石室、甕棺墓、周溝墓、環濠集落、高地性集落、遺跡、前方後円墳、前方後方墳、帆立貝形古墳などの遺物・遺構や 古代人骨 DNAデータや 古事記、和名類聚抄、三国史記の地名、アイヌ語地名 のデータベースを趣味で作っている超異常者ですよ😇
かぬそぬは尋常じゃないほどのデータ収集癖があるので、一般人から見たらただのやばい埴輪なんですけど 尋常じゃないほどのデータ収集癖は学術分野には役に立つので、かぬそぬの存在価値を見出せる世界があって本当に良かったです……🙏 (そもそもコンピュータがない時代とか絶対に生きられない😱)
歴史文化ライブラリー 7月。目次あり。 「農耕社会が安定期に入った弥生時代中期、大陸より祭器や副葬品として導入された銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅器は、列島社会を…」 ⇒中村大介 『青銅器が変えた弥生社会 東北アジアの交易ネットワーク』 吉川弘文館 yoshikawa-k.co.jp/book/b10084596…
邪馬台国なんて東大閥と京大閥が飯の種で争ってるだけ。出雲の荒神谷遺跡から大量の銅剣や銅鐸、銅矛が出土した時小馬鹿にした京大閥の畿内説論者は特に信用ならないと思ってる。
大学入って一番驚いたのは、 「邪馬台国論争はもう解決済みです。九州説の学者もいるにはいますが、ちゃんと考古学者を名乗っている学者の9割ぐらいは近畿説です」 と古墳時代の講義で教わったことかも
前期弥生が銅鐸文化で出雲大社や諏訪大社。 後期弥生が銅矛文化で今の皇室、呉の太伯等の漢民族系で、前期弥生を打倒したのに漢民族文明を捨てて前期弥生の言語や文化を全面的に取り入れた。 news.yahoo.co.jp/articles/d531e…
纏向遺跡 弥生時代後・末期で見てみると、北部九州・対馬壱岐とは全く隔絶しているように見える、無関係。 広型銅矛と銅鐸の分布 北部九州はごくわずか、半島系は皆無?? そして鉄器類、鉄鏃の少なさ 農具土木工具にも鉄材不使用 そりゃ不弥国から投馬国経由で片道60日もかかるんだから残念 pic.twitter.com/WDNj34binq
今日は出雲へ。出雲大社はもちろんなのですが、それより何より出雲古代歴史博物館がすごかった! 荒神谷遺跡から出た380点の銅剣、銅矛、銅鐸はもう凄いの一言。本物の持つ迫力に圧倒されます。えらいもん見たな~😆 pic.twitter.com/pCpVwd81wl
「邪馬壹国筑紫平野のどこか説」によって何が変わるのか? 弥生時代の終わり 古墳時代の始まり 広型銅矛、銅鐸 鉄器 西新式と庄内式・布留式 墳丘墓と前方後円墳 三角縁神獣鏡 先入観、バイアス 記紀、暦年代との整合性、論議からの解放
返信先:@Ling_Benny戦後だと ・足利尊氏の評価の変化 ・銅剣銅矛銅鐸文化圏の崩壊 ・藤村旧石器捏造 ・1192→1185 ・鎖国という表現や四つ口貿易 ・聖徳太子呼称問題 など、結構あるのよね。
返信先:@CasseCool天皇(ヤマト王権)血統が1700年くらい続いてるのは確かだと思います。実権がない時代の方が長いけど、征夷大将軍・摂関政治・外戚を始め、天皇君臨を利用したのが1700。その前は銅鐸文化圏銅矛銅剣文化圏が別れているので西日本と畿内は別王朝かと。東北は平安初期までヤマト王権と関係は無いかと
○舶来品 銅鏡、金印、銅鈴/銅矛/銅戈(後に弥生文化固有のものに変化、銅鈴は銅鐸へ)等々 ○習俗関連 支石墓(縄文伝統の極端な屈葬で葬られる) <縄文期の土壙墓・再葬墓は弥生期に継承> 鳥形木製品、厚葬、大陸系土鈴技術等々
荒神谷遺跡。国史跡。銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した埋納遺跡。島根県出雲市斐川町神庭(出雲国出雲郡健部郷)。各種史料で当地の情報が錯綜していますが、西出雲の王(≒大国主)が大和に服属するにあたって、加茂岩倉遺跡と同様に、不要になった宝を隠した遺跡と見るのが素直なのかもしれま… pic.twitter.com/4pGNP7MawQ
日本人としては古墳時代の埴輪土偶や縄文火焔土器、銅鐸、銅矛に目が行ってしまう 参照に手塚治虫「三つ目が通る」も 大英博物館日本ギャラリーは北館の端の最上階(つまり端っこ)にあるのでわざわざ見に行く人あまりいないだろうなと思ったら、意外と人がいた。他の展示室とは客層が違う、通なかんじ pic.twitter.com/SVYLAiNdrd