- すべて
- 画像・動画
自動更新
並べ替え:新着順
メニューを開く
僕が邪馬台国は九州説に立つ理由の一つは、纏向遺跡も含めて、近畿地方は出雲地方の銅鐸の民族文化圏の影響の強い地域であり、その時代の本州の本質的な覇権を握っていたのは出雲であると考えているからというのもある。そして銅鐸も世代ごとの分布の変遷が西方からの政治的な圧迫によると考えている。
メニューを開く
懇親会、毎度恒例の初対面の方から 「あ!いつもXみてます!」 「あ、あのTwitterとかやっていますか?」 「銅鏡のデータとか集めてたりしましたか?」 「銅鐸の分布みました!」 「アカウント名、"か"から始まりますか?」 などなど、かぬそぬの活動を知っている千葉大生に沢山会えて嬉しかったです🙏
メニューを開く
纏向遺跡 弥生時代後・末期で見てみると、北部九州・対馬壱岐とは全く隔絶しているように見える、無関係。 広型銅矛と銅鐸の分布 北部九州はごくわずか、半島系は皆無?? そして鉄器類、鉄鏃の少なさ 農具土木工具にも鉄材不使用 そりゃ不弥国から投馬国経由で片道60日もかかるんだから残念 pic.twitter.com/WDNj34binq
メニューを開く
以前書けなかったことが書けるようになる変化について「文体の獲得?」 jtsuruki.blogspot.com/2023/01/202301… 銅鐸について 4 和歌山県における出土銅鐸の分布および傾向 jtsuruki.blogspot.com/2015/07/4.html