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日蓮が生きた時代は鎌倉時代、13世紀です。日興と日目が生きた時代は鎌倉時代の終わりと建武の新政までで、二人の没年は1333年です。それなのになぜ死後200年以上が経過した頃に突如現れた遺文が無条件に日蓮真蹟と判断されるのでしょうか。意味がわかりません。
吉川英治『私本太平記(六)』読了。 老い桜 打ち咲かせるも りくのため 『時政こころの俳句』より。 とかヨタはさておき建武の新政下においても准后康子のおねだりで色々無理が通ったように描かれていますが施政者に限らずラバさんに尻を叩かれ無理筋で突っ張るのは人類のお約束なんでしょうか。→
先述の金ヶ崎城は信長撤退戦の230年程前にも大戦があった場所で、建武の新政に反旗を翻した足利尊氏軍の斯波高経・高師泰と、後醍醐天皇から恒良親王と尊良親王を託された新田義貞が激突した舞台でした。尊氏軍の前に新田義貞は援軍を求め脱出、尊良親王と義貞の息子・義顕は自害し碑が残ります。 pic.twitter.com/ufhGhVnHsd
返信先:@live_in_Lyon他1人南北朝時代を天皇の権力争いと見る話ですか? 天皇承継を巡るトラブルではなく、建武の新政後の恩賞問題が発展し、結果的に朝廷が南北二つに分かれました。 これが天皇後継を巡る権力闘争なら、更に国が荒廃していた事でしょう。
鎌倉時代前半に日本の僧が中国で朱子学を学び日本に伝える。その後の後醍醐天皇の建武の新政と南北朝の分断はその大義名分論の考え方でされた。 その後朝鮮出兵の捕虜から朱子学を学んだ藤原惺窩から林羅山を経て徳川家康が江戸幕府の制度とする。王道と覇道の矛盾から江戸幕府の終焉とも関係する。
1333(元弘3)年新田義貞が上野国で鎌倉幕府打倒の兵をあげた時、真っ先に馳せ参じたのは、大井田経隆(つねたか)を首領とする越後の新田氏一族でした。これ以後、大井田氏などの一族は、建武の新政(けんむのしんせい)から南北朝時代の動乱期に、南朝方として各地に転戦し勇名をとどろかせました。 pic.twitter.com/2HqXvPOU1q
返信先:@naruseyanoken1たくさん挙げられるけど、やっぱり真っ先に思い浮かぶのは楠木正成かな。 惜しむらくは彼が忠義を捧げた後醍醐天皇と建武の新政が、それに見合う価値のものではなかったこと。もし尊氏と組んで理想の政体を目指してくれていたら…と夢想してしまいます。
#自民党に投票するからこうなる #維新に投票してはいけない #立憲民主党 #れいわはないわ つまりどこにも投票できない「令和の王政復古の大号令」もあり得ないしね あとは建武の新政に倣った「令和の新政」てのも大失敗しそう 大丈夫かい、定額減税が始まるよ
東寺領太良荘:若狭国遠敷郡にある荘園(現、小浜市)。建武の新政に際し、後醍醐天皇が地頭職を東寺に寄進したため、東寺が領家職・地頭職をあわせ持つ一円支配となったと喜んだが、農民はかえって負担倍増し困却、東寺へ訴状を提出した。新政権への失望を示す。
「朝敵」って逆上れば明治維新とか建武の新政とか承久の乱とかに出てきたコトバのような… 安倍前総理の暗殺から始まったとすれば、敵は大陸で手先が半島、そのパシリが眼鏡、みたいな設定? 間違いなく歴史の転換点
正論。男系男子による皇位継承しか選択肢はない。女系天皇を口にする者がいれば、中国共産党統一戦線の影響下を受ける中国共産党の協力者や隠れ共産主義者である可能性もある。こういう朝敵は疑惑の目で見ることが必要。 president.jp/articles/-/810…
本日読了した本は「楠木正成・正行・正儀 南北朝三代の戦い」by生駒孝臣。河内国の豪族の楠木正成は、後醍醐天皇の呼びかけに応じて、神出鬼没の戦術で鎌倉幕府軍を苦しめて、建武の新政の重臣となり、最後は湊川の戦いで足利尊氏に敗れ自害したが、その子の正行、正儀も南朝の柱石として活躍した。
返信先:@tokushinchannel蘇我氏の時代にはもう天皇ではなく蘇我氏が権力を壟断してましたからねえ。 日本史で天皇が専制権力もってた時代といえば、はるか古代の天皇、天武天皇の皇親政治、後醍醐天皇の建武の新政くらいですかねえ。建武の新政が失敗したお陰で、その後、天皇専制はありえないという話になりました。
あの時代詳しくないけど、建武の新政に対する期待感って、武家公家含めて「ゴダイゴさんかっけー!」な感じだったのかな、09年の鳩山みたいに。で蓋を開けてみれば・・・で政権交代(室町幕府)につながるわけだけど
返信先:@miomio322他1人権威と権力は別ってことですね。 藤原氏、平氏、源氏(鎌倉幕府)、足利氏(室町幕府)、織豊政権、徳川幕府、明治政府と時代毎に天皇からの命を受けて統治してましたから。 例外は「建武の新政」などの親政期でそれらも短期間でした。
返信先:@sarasagashi両派が対立しあうって皇室の伝統なんじゃないのかな😂 壬申の乱や建武の新政なんか その典型じゃないの? 【都市伝説か陰謀論か同接600人超のスペース主「八咫烏・光の語り部・どらちゃん」が明かす秋篠宮殿下出生の秘密】 youtube.com/watch?v=lJcmlm…
遊泳禁止の場所で遊んでいる陽キャに 「沖に流されるぞ!」 と注意したら 陽キャ男「沖に流されるって後鳥羽上皇かよw」 陽キャ女「超~承久の乱?w」 「帰って来れなくなるぞ!」 陽キャ男「は?後醍醐さん普通に帰ってるしw」 陽キャ女「建武の新政マジパねえw」 とか言うから呆れたわ これ好き
後DAIGO天皇、今でいう所の情報ネットワークバリバリ活用&怪しげカルトセックル教団入信、建武の新政、膨大な仕事量を「政務はオレが全部チェックする!」と始めるが当然キャパオーバーで破綻、足利っちに叛逆され吉野へ遁走後、朝廷は南北に別れる。というまことに歴史はエンタメな人。 pic.twitter.com/19VOfwQUPX
紀子さま「こういうことがあるとウイルス性の腸炎が蔓延しますよね」…金沢で被災地派遣の医師らと懇談 : 読売新聞 令和の建武の新政やね。気持ちはわかるがギリギリやね。 yomiuri.co.jp/koushitsu/2024…
(続き)鎌倉幕府を倒した翌年、後醍醐天皇は年号を建武とあらためて建武の新政を開始。しかし公家を重く用いたため、武士の間に不満が。足利尊氏は新政に失望した武士たちに、武家政治の再興をよびかけて兵をあげ、建武の新政は2年で失敗。器 pic.twitter.com/Q1XnMf9uRw
身内(鎌倉幕府。最後の執権は義兄)を滅ぼして掴んだ新しい時代(建武の新政)を自ら否定するような戦にになり、敬愛する帝や仲間もことごとく敵に回り、己の半生を壊すにも等しい争乱に勝ったら、また身内の殺し合い(今度は弟や息子)が待っている足利尊氏、彼が心から「幸せ」を感じた瞬間はあったのか。
北条時行 中先代の乱の首謀者。北条高時の孫で得宗家の生き残りの1人。建武の新政のめちゃくちゃな政治を破る為に信濃の諏訪氏の協力で挙兵。足利直義軍と戦闘したが勝って鎌倉を占領する。命令を受けずに勝手に尊氏が出兵して破る。その後3度鎌倉を奪還する。最後は捕まり処刑
返信先:@sakekasutanaka平成も令和も元号なはずですが、何でも西暦で書くようになって触れる機会は減ってますよね。 遡れば建武の新政とか色々あるはずなのに。とは言え、大化の改新→乙巳の変と習うようになったりもしていますし。学習要綱の問題なのか…?
足利尊氏(高氏・初代将軍) 足利尊氏は鎌倉幕府を滅ぼす前は高氏と名乗っていた。六波羅探題を滅ぼす功績をあげた高氏は後醍醐天皇の名前から一字拝領して尊氏と名乗った。だが建武の新政には参加せず北条氏残党の討伐に向かう時に征夷大将軍に任命させろと言っても聞いて
建武の新政の再評価については笑ったな、私が若い頃新政で文書を乱発しても、実行するのは地頭や鎌倉幕府の息がかかった人たち、武力なければ実行できなかったと教えられた。ところが今は文書だけ見て再評価しているらしい、昔より歴史学のレベルが下がったということだな。
新田義貞(南朝) 新田義貞は鎌倉幕府を攻める覚悟をすると一族を引き連れて幕府軍と戦う。幕府軍も必死に抵抗するが鎌倉が守りにくい土地と言う事もあり、滅ぼされる。新田義貞は建武の新政に協力して足利尊氏と距離を置くが足利尊氏が鎌倉で反乱をおこした時に敗れる