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正覚院さんを後に七寺二寺目、信濃三十三観音札所第12番札所、浄土宗な菩提山無常院さんに🙏御朱印いただきましたがえ~ただいま御朱印帳出張中なため、こちらものちほど…(おい、忘れてきたことを都合良いセリフにしてるんじゃねぇよ😡 zenkojikai.com/shinetsu/s-086… pic.twitter.com/z1RVKspDgS
柳原神社さんを後にさてどうするか…駅に戻りのタクシー課金🚕っで、七寺一寺目、窪寺観音こと真言宗智山派な慶紫山正覚院さんに🙏御朱印頂いたのですが、5日にお参りしたお寺さんに御朱印帳を忘れ😱(バカですねぁ😑取りに行ってから載せましょう… instagram.com/syogakuin/?hl=… pic.twitter.com/P695PTcaMF
加賀通り越して能登まで行って来ました。 能登一宮気多大社前回コロナで直書きもらえなかったので諸国一宮御朱印帳にいただいてきました。 お隣の神宮寺正覚院もいらっしゃって直書きいただけたので気多大社と並べて😁 能登の復興早くできるように陰ながら願っています。 pic.twitter.com/59lby47u47
24.4.18 木 窪寺観音正覚院 春の観音まつり 紅屋青木煙火店 ② どうせ白飛び…と思ったら意外に撮れてた ぐるぐる🌀しゅごい😂 お墓の花火楽しかった pic.twitter.com/GQnYNewRpW
24.4.18 木 窪寺観音正覚院 春の観音まつり 紅屋青木煙火店 ① 最前列に行く勇気はまだなかった(📷がね)けど笑 向かい風が少々強かったためか安全のために後方へ移動になったようでした この曲でのスタマ見たかったし 大規模な花火大会ではなくこちらで見れたことにちょっと特別感 pic.twitter.com/aTgrDn8pyu
正覚院から 小路西河原に降りていく方の坂道 13日から8月まで車通行止めとなるそうです 一部地図アプリでナビ入れると こちらの道を指示されるらしいので お気をつけて pic.twitter.com/Bu1Trhb4gE
明智光秀と威徳院を媒介にしてつながりうる正覚院も、何らかの形で焼討を事前に知らされ、逃れることができた可能性は想定してもよさそう?また、元亀3年10月時点まで、表面的には甲尾同盟は活きており、明智光秀は信忠・松姫の婚儀に関わっていたとされている。
その威徳院西坊は、弘治年間に信玄が祈祷返礼を出しており(戦武637)「任恒例御札到来」とあり長年の関係を想像させる。信玄と威徳院、信玄と正覚院、そして威徳院と正覚院。その相互の関係があったからこそ、ひとまず威徳院に身を寄せた豪盛が、信玄の元に逃れる選択をしたのだろうか、などと想像。
豪盛弟子である豪圓が比叡山焼討の時には安芸におり、叡山焼討を知ってとって返し、丹波から八瀬、大原、坂本…と師である豪盛を探し歩き、ようやく「愛宕山西坊」で再会したと記している。つまりは、正覚院豪盛は甲府に来る前に、一時的に愛宕山威徳院に潜んでいたらしく、旧知の関係だったのかも?
続いて、山岳修験65号「比叡山における豪圓の活躍―曼殊院文書の紹介―」の再読。ここで示される「加田備後宛西楽院豪圓申状」は非常に貴重な情報を与えてくれる。当初は、この論文で天海が甲府にいたこと、天海が甲府にいた頃に信玄秘蔵の千手観音像があることを知ったのだけど…
戦武4043、元亀二(1571)年5月、正親町天皇綸旨。覚恕の天台座主補任に際し、物入りなので、国家安寧、武運長久を祈願するために覚恕と合力し、門跡を再興せよとの内容。叡山焼討の直前。そして9月に焼討…正覚院らが愛宕山威徳院を経由して来甲。
続いて戦武1573、元亀元(1570)年7月。覚恕、天台座主就任。これに際し、信玄から祝辞。この時点で覚恕に連絡できているのは、正覚院の伝だろうけど、すでに一定の修行を終え、天台僧としての立場を確立できていたのかも知れないな。
この瑠璃寺所蔵文書は戦武2121。永禄6年?四度加行の指南を求め、毘沙門天・大威徳明王などの「法」を伝法を正覚院重盛に要求し、また来年6月の法会までに好きなように戻っていいとあるので、正覚院を下向させていたっぽい。
で、この信州の末寺で、重盛が兼帯していた瑠璃寺には信玄の文書が残り、「此已然輝虎祈念、更不存遺恨候事」とある。ここが正覚院の接点の最初かなと思うのだけど、それ以前は上杉との関わりが強かったんだな…
信玄との関係で問題になるのは、上杉氏文書の1、492/493号文書。重盛が武運長久の祈祷をしているのだけど(492)、493号でこれまでの比叡山正覚院と長尾上杉氏の間柄があるものの、武田晴信・伊勢新九郎(氏康)の調伏を依頼され、驚く重盛。武運長久はあったが調伏はなかった…
これらは翻刻されていないのかな…大日本史料の上杉氏文書1-3には出てこない。それでも為景代から関係があったこと、覚恕以前の天台座主とも長尾上杉氏が通交していたことがわかるのは大きい。またいずれも正覚院重盛であって、豪盛ではない点にも注目したい。宝菩提院灌室の流れを受ける前?
その他、天台座主・尭尊法親王(覚恕の先々代)から天文22年、また年紀は不明ながら座主庁務から重盛宛、その他重盛からの文書が4通、秀清からの文書も他に1通…などなど、上杉氏文書の正覚院関連の文書が多数あることに気づく。
起きてから、「大日本古文書 家わけ十二ノ一 上杉家文書之1」を見ていて驚く。比叡山正覚院の重盛(豪盛)の恐らく先代に当たるだろうか、正覚坊秀清なる人物が長尾為景に祈祷をしている。しかも祈祷料として越後国内の領地を寄進している。年未詳だが、「長尾信濃入道殿御宿所」とあるので、隠居後?
正覚院豪盛、武田不動尊の開眼のときには甲府にいたのだろうけど、豪盛が延暦寺復興のため西国に勧進に行くのが天正12年。元亀末年から天正10年までどうしていたのか…勝頼期に義昭上洛云々というのは、毛利宛の文書だったかで言及あるが、比叡山についてはなかった気がするし、関わりが見いだせない。
岩倉から比叡山へ。お詣りするには時間が僅かでしたが、ここが目的…正覚院跡延暦寺会館。この小さなお堂が正覚院の本尊不動明王だったなんて…信玄と交流のあった正覚院豪盛、今関心の高い人物。三鈷剣を肩に凭れさせていたりするとこは武田不動尊と似ている。光背の火炎が渦巻いているようにみえる🔥 pic.twitter.com/szIgmO0hzy
そういや叡山焼き討ちの際、正覚院豪盛は愛宕山白雲寺に逃れてたんだよな。そこから甲斐に下ってくる。一応は白雲寺、大覚寺の末寺だったはずだが、いいのかなそこは…豪盛いたの、どの坊だっけ。またあれ読み返そう。
いつか叡山文庫を利用してみたいものだ…叡山文庫文書絵図目録の目次みてると「東塔正覚院文書抄出目録」とかあるじゃない。中世文書あるのかな…大半が元亀二年の比叡山焼き打ち法難以後ってことはさ、数少ないながら元亀二年以前の史料もあるんだよな?
午前から昼過ぎは住心院の大祭、はそこから京側から比叡山に上がって、今マイブーム?の正覚院跡の比叡山会館へ。知らないと気にも留めなかった旧正覚院跡の御不動様に参詣。信玄公所縁と知るや態度が一変するゲンキンな奴です笑
一緒に逃げてきている満蔵院亮信も比叡山の僧みたい。天正13年に正覚院と満蔵院が合併し、満蔵院の名が残るみたいだけど、この『満蔵院』も満蔵院亮信からとってんちゃうの?ある時期から天台から真言に変わったのかな…いうて、現在真言宗智山派であり、長谷寺を吸収してるのに、豊山派じゃないんだな
改めて甲府満蔵院の看板をみると、満蔵院成立前の歴史が興味深い。信玄期に毘沙門堂があったのが『正覚院』、時期も天台宗の関係が見いだせる永禄12年、ここで真言僧だけでなく天台僧の論議を聴聞、また叡山の正覚院豪盛は甲府のこちらに滞在。比叡山の正覚院から名を取ったのかな…
満蔵院って公開されることないなあ。近年看板が付いただけでもありがたいのだが、改めて読むと興味深い。信虎による創建のくだり、本尊が千手観音で清水寺との関わりを想像させたり、先日の講演との関わりでは毘沙門堂と所縁が興味を引く。
🟧 #八千代市3択クイズ 《歴史》 🟧 ➕問題➕ 八千代市にある寺院で、江戸時代の事件を基にした物語、「八百屋お七」の墓が境内にあることで有名な寺院は? 1️⃣ 長妙寺 2️⃣ 長福寺 3️⃣ 正覚院 #yachiyo #八千代市 #やちよ総合研究所 #八千代市クイズ pic.twitter.com/9gv3a6aC82
一方、信玄も謙信の呪詛打診を不問にし、四度加行の指南を求めて叡山に僧の下向を要求するなど、積極的に近づき、覚恕の天台座主就任に際しても祝辞。叡山焼討後は正覚院豪盛は甲府に逃れ、覚恕の仲介で権僧正となる…謙信の密教観に影響を受け、信玄も怨敵調伏の法を身に付けようとした…はありうる?
窪寺観音正覚院 観音春まつり 久し振りの激近花火 どんなに煙っても寧ろ向かい風だからこその楽しさよ(^^; 開始数分前のギリギリ滑り込み… 2024.4.18 pic.twitter.com/bbAby6x5BQ
長野市安茂里の正覚院(しょうがくいん)で行われる「観音春まつり」 #紅屋青木煙火店 さんが音楽に合わせて打ち上げる #ミュージックスターマイン は、19年前にこのまつりで始めたのが日本での先駆けとされるんだって 長野からだったのね🎆 ミュージックスターマインかっこいいよね🎆🎆 #SBC信越放送