- すべて
- 画像・動画
並べ替え:新着順
それで雄略朝478年頃に外宮創建で ※海部系図の原本3人から平安時代丹波海部海部系図加筆でミス(国宝海部系図)していて※正解は🈁 海部祝名乗り時から調べるとそも籠神社創建が671年頃 今の氣比神社創建が神功皇后三韓征伐の頃 雄略天皇は度会に奉職させていて 雄略朝🈳既にあった氣比(神宮)からですか pic.twitter.com/fuKWKl0Tr7
古墳時代 5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝 478年(順帝昇明2年) 倭王 武が宋 (南朝)に届けた上表文 「昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
🩷 夜のブラリタビ 海外遊学 🩷 🇬🇷ミコノス島のお隣🏝️デロス島✨ 古代ギリシャの聖地とされた島でヘレニズム文化の中心地。島内には遺跡が数多く残っています👀 前478年 ギリシャ諸ポリスがペルシア軍の襲来に備え結んだ軍事同盟 #デロス同盟 の歴史で知られます✨#社会は世界史選び人名見て後悔 pic.twitter.com/0s0GXzmWO3
正解多数👍✨ わかたけるだいおう 埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘に記された辛亥年(471年)当時の大王。雄略天皇の諱を大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)といい,478年の上表文で知られる倭王武が雄略とされることから,この大王も雄略天皇とする説が有力。 kotobank.jp/word/%E7%8D%B2…
倭の五王最後の辺再検討 460年 ? 安康 462年 興 安康 477年 ? 雄略 478年 武 雄略 479年 武 雄略 502年 武 仁賢or武烈 *雄略天皇の即位は最速で463年、最遅で稲荷山古墳鉄剣銘の辛亥471年、502年の遣使が武烈天皇だとするとその頃まで倍年歴で表記されていなければならない
今考える倭の五王 413年 ? 応神・葛城襲津彦? 421年 讃 応神 425年 讃 応神 430年 ? 仁徳・平群木菟? 438年 珍 仁徳 443年 済 允恭*仲哀・凡牟都和希王の子孫 451年 済 允恭 460年 ? 安康 462年 興 安康 477年 ? 雄略 478年 武 雄略 479年 武 雄略 502年 武 仁賢
しかし改めて検討すると倭の五王と応神天皇から雄略天皇までの系譜が殆ど一致しないな 讃が仁徳天皇で珍が允恭天皇としても允恭天皇在世中に珍と斉が交代して雄略天皇即位後も最初は興で478年に武がようやく登場 やっぱ軍事担当の豪族が倭の五王として使者を送っていたのかも 偽名で架空の王?
私的倭国と大陸③ 大陸への交易路を物部氏に抑えられた蘇我氏と、百済に邪魔される新羅。 日本海を挟んだ両勢力が結託したのは当然の流れ。 478年に独裁王雄略天皇が崩御し、その反動で倭国は混乱。 最終的に応神天皇の血を継ぐ、継体天皇を祭祀王として迎え収束を図るも、豪族達の権力闘争は続く…。 pic.twitter.com/fIhvHnw1ia