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平安時代(8世紀から12世紀)の昔から「歌枕」として遠く都の人々にも知られてきました。大きな津波が襲っても「末の松山」を越えることはできない、とのいわれから、 ...

末の松山(すえのまつやま)は、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。 末の松山(2007年8月撮影). 座標: 北緯38度17分16秒 東経141度0分11.9秒 ...

末松山:<まっしょうざん>と読む。多賀城市末松山宝国寺の裏に小山を作った。ここには、連理の枝を模した相生の松があった。これは、また男女の恋・愛欲などを象徴する。

2020/6/23 -宝国寺の裏手、2本の松がそびえる丘が末の松山です。最古の勅撰和歌集である古今和歌集(延喜5=905年成立)に初めて登場し、以後みちのくを代表する歌枕 ...

[ 一 ] 陸奥国にあった地名。宮城県多賀城市八幡の宝国寺背後の丘陵地の呼称とも、岩手県二戸郡一戸町と二戸市との境にある浪打峠のことともいわれる。歌枕。

芭蕉とその弟子の曾良(そら)が作品に書きとめた風景は近世・近代を通じて人々の風景観に影響を与え続け、今なお往事の雰囲気と遺風を伝える一体の風致景観である。 「 ...

末の松山. 多くの歌に詠まれた、みちのくを代表する歌枕。芭蕉は、「松の間々皆墓原」という光景を目の当たりにし、恋愛にまつわる歌枕の地が墓原と化している現実に ...

このとき「末の松山」のある小山には津波が届かなかったことから、地震と津波の避難地として「末の松山」が伝承され、それが都に伝わって和歌の中に詠み込まれたもの。

2021/3/10 -地震を知る陸奥の人にとっては、末の松山を波が越えることは「もう少しでありえたこと」だった。にもかかわらず、定型に従って「末の松山波越さば あだし ...

2023/9/13 -上記の「末の松山」は平安の昔から数多くの和歌に詠まれてきた歌枕の1つで、「お互いに涙で濡れた袖をしぼりあって、あの末の松山を、波が越えること ...

末の松山

末の松山は、宮城県多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。 2014年10月6日より、「おくのほそ道の風景地」の一つとして国の名勝にも指...-Wikipedia