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安息日を墨守するパリサイ派の教えに公然と反対し、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない(マルコ.と言い切ったりもしたからだろう、おそらくイエスの反対者たちは「この男は何者だ。律法や預言者を廃そうとでも言うのか」と思っていたようである。しかしイエスは堂々と「廃するためではなく、成就するために来た」と語られた。この言葉の意味は、実にイエスご自身が「律法と預言者」、即ち旧約聖書が指し示しているものの実現であるという意味である。その意味で私たちのイエス理解はイスラム教徒のそれとは異なる。彼らはイエス(イーサー)を予言者の一人、しかもムハンマドの先駆けとして敬いはするが、私たちはじつにイエスご自身が律法の終わりであり、且つ目的である(ローマ10:4)と信じるのである。つまり旧約のすべての記述は究極的にはイエスを目指しているのであり、イエスの内にすべての実現をみるべきなのである。
使徒パウロを読み解くキーワードの一つは「割礼」である。彼はキリスト者となった異邦人にも割礼を施し、モーセの律法を守らせるべきだと主張するユダヤ人キリスト者と激しく対立し、そうした律法の墨守を「われわれの先祖もわれわれ自身も負いきれなかったくびき(使徒.と呼び、それから自由になることを主張している。だが次の章では一転、「ユダヤ人の手前」ユダヤ人とギリシャ人の混血であるテモテに割礼を施した。「律法遵守」という観点でこれを見るなら、迎合や妥協にしか見えないのだが、実はそうではない。というのもパウロの頭にあったのは常にイエスに従い、その使命に生きることであり、より大きな神の使命を達成する為なら、愛弟子テモテに割礼を施すことは「是」となったのである。友よ、旧約は大切だ。マルキオンになってはいけない。だがそれは常に律法の終点であり、目的であるイエスへの信仰と愛の光によって再考される。神との愛の関係を育み、御霊によって歩もうじゃないか。そうすれば決して「パリサイ人の義」に落ちることはない。アーメン。
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