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さらに、和歌を通じて後鳥羽上皇と親しい間柄だった3代将軍・源実朝も、1219年(承久元年)1月、右大臣昇進の拝賀に参拝した鎌倉鶴岡八幡宮の境内で兄・頼家の子で甥の公暁により暗殺されます。 実朝の死後は鎌倉殿の政務は頼朝の正室・北条政子が担い、弟で執権の北条義時が補佐に就きました。 pic.twitter.com/ozdcUXJweJ

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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで@MoeK20060408

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北条政子は後鳥羽上皇へ使者を送り、皇子・雅成親王・頼仁親王のどちらかを将軍として鎌倉へ迎えたいと願い出ます。 しかし、上皇はどちらの皇子も政治的道具にされると考えて拒否しました。 そして上皇の愛妾・亀菊に与えた荘園の地頭職を罷免するなどを幕府に要求し、反応を伺う事にしたのです。

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