ポスト

馬超は劉備が益州を治めると平西将軍・督臨沮となった。 ここの臨沮は荊州の臨沮なのだろうか? この後、馬超は漢中戦に参加したので督臨沮の役目から離れたと思われる。また、関羽は臨沮で孫権に捕らえられ斬られた。 つまり、逃げたのでなければ、馬超の後任の督臨沮は不在ということだ。 #学三国

メニューを開く

トベ・イツキ@『学園戦記三国志』連載中@tobeitsuki

みんなのコメント

メニューを開く

215年、孫権が荊州に兵を進め一時緊張状態となるが、荊州の分割統治ということで同盟が成された。 このために馬超は督臨沮の役目を解かれて漢中に回されたのだろうが、孫権との関係を考えたら、臨沮に誰かしら置いても良さそうに思うのだが

トベ・イツキ@『学園戦記三国志』連載中@tobeitsuki

人気ポスト

もっと見る
Yahoo!リアルタイム検索アプリ