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竹内明太郎は小松製作所をつくる前、遊泉寺銅山経営を芳谷(よしのたに)炭坑という会社の時代に専用軌道を敷設していますが、「炭坑」ではなく銅鉱山だったので会社名を漢字表記にしなかったのではと推測。 唐津市の歴史家の方にも確認し、芳谷炭坑社の境界標の写真と照らすと、同じく御影石でした。
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境界標のイニシャルは「Y遊泉寺C銅山(カッパー)」とも読めるが、本来境界標は社名とするのが所有権側の基本。 イギリスに渡航経験が長く芳谷炭坑社の海外拠点も多かったので、竹内明太郎が竹内鉱業から資本売却を進める過程の社名変更も考慮していたのかな、と。 偉人は学者にあらず、賢者の知恵?