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もちろん、仰るとおり「脳中心」はイデオロギーにすぎません。脳梗塞体験から実感されるのは、それは「中心」ではなく「媒体」だということです。哲学者の大森荘蔵氏は「脳透視」という考え方をしていましたが、その正しさが「不透視=濁った媒体」の体験から、逆照射的に浮かび上がります。

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入不二 基義 Irifuji Motoyoshi@irifuji

みんなのコメント

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哲学的な不思議さは、非西洋的な説明洋式を、採用しても消えないからこそ「哲学的」なのです。この場合の「(哲学的思考が生き残った)たまたまさ」は、説明洋式を変えても消えませんし、その原始偶然性に思い至ること自体が哲学的思考ですから、ここには哲学的にも興味深い「循環」が生まれています。

入不二 基義 Irifuji Motoyoshi@irifuji

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はい、媒体という認識の方が適切かと思います。傷寒論や金匱要略には脳という語も概念もなかったと記憶しています。さすが、しっかりとフィードバックを得ていらっしゃいますね。

りょう / Ryow 🐹@midgenasia

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