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ちなみに 『権記』には… 長徳4年(998)9月1日条 ◆◇◆◇◆ 雨であった。午剋(うまのこく/午前11時~午後1時)の頃、左府(藤原道長)の許に待った<上東門第[土御門第]である>。大雨によって一条の堤が決壊し、鴨河が横溢(おういつ)して京中に入ったことは、海のようであった。 #光る君へ pic.twitter.com/WNiLV62tiM

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大河ドラマ「光る君へ」(2024年)@nhk_hikarukimie

みんなのコメント

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<長徳4年9月1日の要人の勤怠【まとめ】> 〇一条天皇:【出御し、事案に対処】 ●道長:7月以来欠勤【9月1日も欠勤】行成を内裏との連絡調整役とする 〇行成:出勤。但し、8月30日詮子のいる東三条院で穢があり行成も触れたため【9月1日は参内はせず】内記蔵人藤原中尹が奏上 #光る君へ #権記 #読了

秋津の宮@敷島の大和の国の美しい自然、和歌、平安装束@Akitsuno_Miya

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鴨川の治水対策には、朝廷も道長の世を含め、長年苦労していたようですね、後に白河天皇が、この世には私の思い通りにならないものが三つあると述べた中の一つが鴨川の水、その治世中もあったのでしょう、この権記にある大雨の被害、海のようということは相当なものだったのですね、#光る君へ

みるく大福@yoshifumi0224

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『権記』長保4年9月1日には続けて、防鴨河使が堤の修理の宣旨が下っていたにも関わらず、災害・疫病で余力がなく修理できなかった事について、責任を問うべきかとの道長・行成の伺いに対し、一条天皇が責任を問うべきと答えるなど、職務に精励した様子が記されている。#光る君へ

秋津の宮@敷島の大和の国の美しい自然、和歌、平安装束@Akitsuno_Miya

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*【#光る君へ】「鴨川の洪水は長徳3年7月10に起きており、翌9月1日に再び起きたとしたら、左大臣道長の怠慢である」 … この時期に一条天皇の怠業の記録はない。…

Hiroshi Matsuura@HiroshMatsuur2

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政務を疎かにする一条天皇のせいで事故が起き、死者が多数出た、という史実はありません。事故自体は確かに長徳四年九月に起きているものの、道長が同じ年の七月、つまり事故の起きる前の時期に、日記に一条天皇から政務についての指示を受けたことを書いている、つまり天皇は(続きます)

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