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そうした意味では、今日のブルックナーは、期待が高かった分、いっそう欲求不満が募った演奏であった。また、先日、東京芸術劇場で彼の演奏を聴いたときに直感したその適性に関する感覚が外れていないことを確認した次第である。たとえばブラームスやドヴォルザーク等のロマン派や国民楽派の作品には

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高い適性があるのだが、そうした情緒の世界を超えたところにある超越的なものに関しては大きく距離があるところで音楽を奏でることになってしまっているのである。あえて言えば、今日のブルックナーはシューベルトの世界の中に完全に収まるものに留まってしまっているのである。

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