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幸盛は牢人となると有馬温泉にしばし逗留したのち 各地の大名家を訪れた後京に上ったとされる ただし実際にはこの時期の行動は不明である 幸盛は立原久綱ら尼子諸牢人と共に京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久の遺児尼子勝久を還俗させると各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会を伺う
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元就が大友氏を攻撃するため北九州へ軍を派遣すると幸盛は山名祐豊の支援を受け出雲国へ侵攻を開始する だがその矢先に山名氏は織田信長の攻撃を受けた為十分な支援が受けられなかった 幸盛らは丹後国もしくは但馬国から数百艘の船に乗って海を渡り島根半島に上陸し忠山砦を占拠すると再興の檄を飛ばす