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天智天皇創建の川原寺(佛陀山弘福寺)は天武天皇の一切經書寫の地であり嵯峨天皇が弘法大師に賜った古刹。落雷等火災が重なっても廢寺時期を乘り越え不死鳥の如く蘇り法燈繼承されている勇姿は尊󠄁さ極まりない。聖德太子生誕地橘寺に隣接するのも尊󠄁い。本年第二十九巻目書寫經を奉納させて頂いた。 pic.twitter.com/X3COvwzy6E
明日、天智、天武兩天皇所緣の川原寺(佛陀山弘福寺)納經豫定の書寫經が仕上がった。本年の納經で般若心經は半年ぶりだが、同經書寫は清々しく樂しさ極まりない。大乘佛敎經典書寫と納經文化が傳承されている日本國の素晴らしさと、古代天皇から拜領した甚深の恩に對する感謝崇敬が彌增すのも樂しい。 pic.twitter.com/L8MHjT4fIF
乙巳の變(大化の改新)の旧暦水無月に天智天皇が指差された湯豐宿(指宿)を宿處とし、同天皇創建とされる飛鳥四大寺川原寺(佛陀山弘福寺)の本朝初一切經書寫を追想しつつ書寫に努めるのも至福であるに違いない。lady’s fingerの呼稱も持つアフリカ原產の夏野菜オクラ生産量日本一の名產地は指宿。 pic.twitter.com/X3sbupcs2c
#今日の奈良 #今日の奈良公園 番外編 本日は気持ちいい朝の #明日香 の原風景をお届け❣️ #橘寺 #川原寺 とその後背地のコントラストに感動😊 #やっぱり奈良は素晴らしい #凛とした空気がたまらない #奈良好きと繋がりたい #奈良のシカの代弁者 #奈良公園のことなら竹田さん #奈良のことなら竹田さん pic.twitter.com/07at92XFmq
私的天智天皇即位⑦ 百済救援軍に蘇我、尾張氏が参陣してないことは重要。 飛鳥を三王家(蘇我、物部、尾張氏)が抑えたことの傍証であり、これを日本書紀は絶対記述できない。 よって、飛鳥時代に四大寺院の一つとして重要視された川原寺創建についてすらも口を閉ざし、歴史の闇に葬った、と推考…。 pic.twitter.com/hiTZrklvZV
私的天智天皇即位⑥ 通説は、天智天皇が川原寺を建立した、と言うが、川原寺との関係の希薄さから、大海人皇子が建立した、と考える。 この時期、飛鳥は中央集権国家推進派の支配下にあった。 激動の時代での政治的空白を埋めるべく、大海人皇子は三王家賛同の下、中宮天皇として即位した、と推察…。 pic.twitter.com/39HKE2OKvz
私的天智天皇即位⑤ 尚、斉明天皇の殯が川原寺で行われたのは、物部氏の意向が反映された、と考える。 倭国最大勢力の物部氏には、如何に独裁者の中大兄皇子でも逆らえない。まして、百済救援を成すには、物部氏の協力は最低条件である。 故に、物部氏の意を汲み、斉明天皇を帰京させた、と考える…。 pic.twitter.com/D84p4gqG94
私的天智天皇即位② 661年11月斉明天皇崩御。 亡骸は、斉明天皇即位直後の宮である飛鳥川原宮に移送され、殯が行われている。 その地に建立されたのが川原寺であると考えるが、日本書紀は完全に沈黙。 尚、発掘調査などによって、創建は中大兄皇子称制期とされる661年から667年間が妥当、とされる…。 pic.twitter.com/l1VJU91mP0
「そこで注目したいのは、『日本紀略』大同二年十一月乙酉(二日)の条の記載である。……いわゆる伊予親王事件の結末を告げる記事であるが、伊予親王と母の藤原吉子は川原寺の一室に幽閉され、飲食不通の状態に置かれたのである。……飲食を断たれて十日後に、親王母子は薬を仰いで死んでいる。」