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彼がもし本当に、自身で告白(【百詩篇】序文である「息子セザールへの手紙」で告白)している様に、彼が行なっていたのが予言ではなく預言だったのなら、彼が、そんじょそこらの馬の骨や犬の尻尾ではなく、公平無私なる人間だった事になる。であれば彼には、一切偏見がない。
ヌヴィレット、伝説任務でもそうだったけど、しばしば自分を枠の外に置くよなあ 仮に自分と同じ立場のドラゴンがごろごろいる世界だったらこの公平無私な感じも少し変わるのかな pic.twitter.com/NQAkT4mhzD
聖母子像ですら、客観的に、公平無私に見る事ができれば認めざるを得ないはずだが、キリスト教起源のものではない。聖母子像という〈象徴言語〉はキリスト教をつくった意識的な人間のグループが、エジプトの密儀か引っ張って来たものだ。あれは〈ホルスを抱いたイシス〉である。
話が急展開(いつもだしワザとだが)して悪いが、我々は〈偶然の一致〉を甘く見過ぎている。公平無私なる意識で明らかになるだろうが、この〈偶然の一致〉は(お気付きだっただろうか)一切と全ての時空を超えて発現する。雪の結晶、昆虫の複眼、蜂の巣、土星の北極の”六角形”。
「この制度をわが国が倣うとすれば、その具体的な一例として、栄典制度を皇室の所管に属さしめ、栄典授与の決定をこの機関において審議する。栄典という以上は、政治をも政党をも離れ、如何なる利害からも超越して、公平無私の立場から、国家社会に対する勲功を録して、授与されるものでなければ」
人間に〈原罪〉が実在すると仮定すれば、人間に情熱/感情を付与した張本人が悪魔ルシファーであり、人間に思考/知性を付与した張本人が悪魔アーリマン(サタン)だからだ。人間を客観的に、全く冷徹に、公平無私に見れば、この観点から言えば、人間は悪魔の子、リリンである。
六、獣の封印を解いて、獣から解脱した者が、六、善と悪とを知る人、神の似姿である人になる。この人が、更に(人として致し方ない)エゴイズムから解脱して、公平無私なる存在である〈三本目の足である愛〉を獲得した時、人の封印が解かれる。そして、六、三本足の神に至る。
そう、公平無私なる愛。こんなものを持ち得るのは公平無私なる人間だけなので、せめて、本能的なる愛、生物的なる愛、血縁的なる愛、民族的なる愛、国家的なる愛、社会的なる愛、なんと呼ぼうが実は同じ、自己愛の愛。この愛でも良いので、愛を基準にすべき時期が来たと思う。
返信先:@1LuT6Zooyl37463他1人公平無私で万民が平等と認める差配が出来るとかそれこそ神… 性善説100%の小規模集落でしか成立しない社会(運命共同体レベルの小集団で役割が明確なら不可能では無いと思う) その手のヤカラは「完全実現は無理でも目指す事に意義がある!」と言い出して自分等はちゃっかり隙間のおいしいとこに収まる。
我々は誰一人、公平無私なる愛を知らない。なぜなら我々は公平無私ではない人間だからだ。もし!!公平無私であれば、既に(天から遣わされる使者として誕生する異常なケース以外では)この肉体に生まれて来てはいないからだ。ここに居る我々は、等しく(笑)エゴイストなのだ。
信仰と迷信とは似て非なる、完全に真逆のものである。使徒パウロが【コリント人への第一の手紙】第13章/第13節で述べた信仰は、通常の、迷信の信仰ではなく、公平無私なる信仰であり、希望とは何か?意志である。公平無私なる意志であり、愛とは、公平無私なる愛の事である。
人間にとって最も重要で大切なものは(使徒パウロが【コリント人への第一の手紙】第13章/第13節で述べている様に)信仰、希望、愛の、聖三位一体である。彼が言う通り、この中で最高次の位階にある最も重要なものは、愛である。これはキリストが述べた、公平無私なる愛の事だ。
正真正銘の公平無私なる存在、つまり(言わば)”虚空”であれば、他人の為に俺の命を投げ出して救ってやる!!絶対に敵は許さない、俺の怒りを思い知れ!!などとは思わない。虚空(こくう)なのだから。人間はエゴイズムの存在でありつつ、この虚空を獲得しなければならない。
マイケル・スミス(アメリカ合衆国)とヴィクトリア・イヴァノヴァ (ウクライナ)の解決志向のマインドセットは、いつも公平無私な判断で常にチャレンジする心が人を鼓舞します 2024-06-18 22:31:01
マスコミにしてもポリコレアドバイザーなる連中にしてもだが、公平無私であるか人(思想)によって態度を変えないか、そして何より「Who will watch the watchmen?(誰が見張りを見張るのか?)」なんだわな 自浄能力があるか、あろうがなかろうが監視機構はあるかって話
しかし、彼らの都市の中では、公平無私、一致協力の精神が支配していた。書物の中で遺大な義務を説きながら、身のまわりにいる人に対する義務を怠るような世界主義者を警戒するがいい。そういう哲学者は、ダッタン人を愛して、隣人を愛する義務を免れようとしているのだ。 (ルソー『エミール』第1編)
神とは何か?モーセがシナイ山で神から直接聞いているではないか、曰く「”わたしは有る”という者である」。或いはまた「”わたしは有って有る者”である」が、”神”である。では、有って有る者とは何者だろうか?公平無私なる者である。「一切とすべてがわたしである者」である。