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ちなみに 『御堂関白記』には… 寛弘7年(1010)1月2日条 ◆◇◆◇◆ (一条)天皇の出御が有った。殿上間にお坐りになられた。管弦の公卿や殿上人は、小板敷に伺候した。ほかの人は台盤に着した。盃の巡行が数度あった。御楽遊が数曲あった。御衣を賜った。 #光る君へ pic.x.com/76zK5waYxy
中宮権大夫が奉仕した。皇子の御衣は、中宮大夫と左近中将教通が奉仕した。公卿の宴は、左宰相中将(源経房)が奉仕した。殿上人の饗宴は(高階)業遠朝臣が奉仕した。東宮博以下の公卿は、悉く参入した。数盃の宴飲の後、渡殿の座に移った。盃酌が有った。右大将(藤原実資)が勧盃を勤めた。
大納言(藤原道綱)が陪膳を勤めた。中宮(藤原彰子)の御前の食膳は、殿上人が取り次いで、女房(藤原豊子)に授けた。戌ニ剋に、私は若宮に餅を供した。その後、また座に就いて、数献の宴呑があった。後に籠物ご準備捧と櫃五十合を若宮の御前に奉った。公卿を若宮の後に召した。女房は簾の下に進んだ。
西中門から御人された。御輿に乗られたまま、寝殿に到着された。公卿は西対の南廂の座に着した。殿上人は、同じく東西線の廊の座に着目した。この間、船楽が難産の間から出てきて、天皇の御膳を数廻した。公卿の座が定まったあと、返り入った。私は天皇の御前に参った。天皇は若宮を見奉りなされた。
ちなみに 『御堂関白記』には… 寛弘4年(1007)3月3日条 ◆◇◆◇◆ 土御門第で曲水(ごくすい)の宴を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿と殿上人の座、南廊の下に文人の座を設けた。 #光る君へ pic.x.com/cu0wbz1pu5
(続)「鎌倉の儀礼は公卿という新たな社会階層の参入に対応する形に再整備されることになった」。この作業が小侍所の主な役割で実時がその任務に当たった。将軍家が鎌倉の神聖な首長になったことから、神事や儀礼は公卿・殿上人が補佐。鎌倉幕府は政務の面の補佐で得宗が政治を主導する形に変化した。