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返信先:@ex95UQvrzZgUiFK二人の皇子の葛野王は次世代では、大王の候補者になり得ました。天武天皇は自身の皇子を次の大王に即位させたかったので、壬申の乱で大友皇子一派を排除したようですね。そもそも、天智天皇も大友皇子が大王に即位出来るとは思っていなかったと思いますよ。
返信先:@ex95UQvrzZgUiFK天智天皇は崩御前に天武天皇に対して、何度も大王の即位の要請をしていますね。逆に天武天皇は天智天皇の皇后の倭姫王の即位を提案しています。この時は女帝の可能性もありました。大友皇子は大王には即位出来ませんが、大友皇子の正妃は皇族の十市皇女なので、
明治時代に認められた大友皇子…失われた天皇の真実 | 戦国ヒストリー sengoku-his.com/1783 皇位簒奪の天武天皇的な記事だが、卑母出自・25歳 では即位してない(資格なし)から淡海三船の身贔屓 が大友褒めとなった・・・本当は唐と結んで新羅侵攻 する天智天皇の妄執に囚われた人(´・ω・`)
正解は「いたぶ」駅でした! 飯給駅は、千葉県市原市飯給にある 小湊鉄道線の駅です🚉 壬申の乱に敗れた大友皇子に、村人たちが御飯を振る舞ったことにちなんで、大友皇子が名付けた地名と言い伝えられています☝️😁
返信先:@ex95UQvrzZgUiFK横から失礼致します。 当時の大王の即位の年齢は40歳以上で、兄弟継承でしたから天武天皇の即位は既定路線かと。大友皇子の母親は身分の低い卑母でしたから、そもそも群臣から即位の賛同は得られないかと思います。母親が皇族か蘇我氏のような特定氏族でないと即位は無理ですね。
日本古代の皇子やら王子は常に一寸先は闇、その身は累卵の危うきにあったようですね?大友皇子、大津皇子、有間皇子、道祖王、長屋王等々🎃天子にしてあげます!と唆された挙げ句、首謀者の恵美押勝と共に、あっさり敗滅した名前が妙に可愛い塩焼王も思わずニッコリ
壬申の乱。古代日本における最大の内乱です。ま、どちらが勝っても、男系天皇存続自体は確定してましたから、巻き込まれた諸将兵員には、心理学に複雑だったでしょう?ま、基本的には、敗れて自らの命数尽きた事を悟り、潔く自裁して果てた大友皇子に正統性がありました🎃殆ど無名の塩焼王もニッコリ pic.twitter.com/3TSLiwLszn
#わかなさんと歌碑巡り JR大津京駅前 あかねさす歌碑。俵万智さん筆 なんだか怪しげな雰囲気ですが、大友皇子妃の両親なので、即位してたら皇后両親だっただろうし、蒲生の狩あたりで孫誕生してて宴席で昔話ネタにできた相聞歌かなーと思っています pic.twitter.com/F04v1guzQF
返信先:@castle0722まず、一つも例外のない皇位継承ルールが「男系血統」。 「現天皇の子」は必ずしも重要な条件ではありません。 天智天皇の実子で片腕、指名を受けた大友皇子も、当時の基準では正統性に欠ける為に壬申の乱で滅ぼされています。…
#わかなさんと歌碑巡り JR大津京駅構内パネル。近江朝廷は亡命百済人含む渡来人の影響が強かったし、大友皇子も子孫淡海三船も漢詩に明るい人だったからかれらの漢詩の碑もほしいところだけど… pic.twitter.com/wOpVQxmDyM
返信先:@34nXB5BJsBqjQq5横から失礼致します。 当時の大王の即位の年齢は40歳以上で、兄弟継承でしたから天武天皇の即位は既定路線かと。大友皇子の母親は身分の低い卑母でしたから、そもそも群臣から即位の賛同は得られないかと思います。母親が皇族か蘇我氏のような特定氏族でないと即位は無理ですね。
大友皇子 壬申の乱で大海人皇子と皇位継承を争い敗れた、天智天皇の皇子。「懐風藻」によると、とても優れた人物だったらしい。 「蘇我の娘の古事記」、盲目の娘を主人公に、乙巳の変から壬申の乱までが描かれる。大友皇子がとても素敵。そのかわり大海人皇子が…。 pic.twitter.com/q8RIF7iiCG
返信先:@kko_kko_kko_正確には持統…草壁系ですね(;^_^A 持統系、教科書に載ってる聖武天皇なども、今の皇室に血が残っていません。 一方、この系統に滅ぼされた大友皇子や長屋王は、血が繋がってるんですよね…一応天武天皇も。
日向薬師から大山へ、歴史散歩⑦ 大友皇子の墓 古代日本最大の内乱、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に破れた大友皇子が、実はこの地に逃れ、ここで亡くなったという伝承がある 供養塔は再建されたものだが、もともとのものだというものがこの先にある pic.twitter.com/5VaufiFtC7
いや、天武天皇が天智天皇の兄という説ですね。 皇極天皇が、漢皇子と呼ばれる連れ子を伴って舒明天皇と結婚しているが、その後が不明。それが大海人皇子ではないかという説。 当時は「母の血統」が大変重んじられていて、天智天皇が指名した大友皇子は母の身分が低い。…
返信先:@Noah10291105他1人天智天皇は生まれた年が分かっているが、天武天皇は不明。このことから #壬申の乱 は天武天皇による皇位簒奪だったと言われているよ。
・舳越 もあった!! これは、大友皇子が壬申の乱で都から船で逃げて来て、その舳先がたどりつた場所が由来だそうです。 どうせなら、愛知県出身(東尾張)の佐藤二郎がMCの歴史探偵でも、取り上げてほしい。
あと、愛知県は、なかなか読めないな地名も多いかも… ・矢作 ※芸人と同じ ・設楽 ※芸人と同じ ・栄生 ・泥江 ・百々 ・蒲郡 ・宇連 …まぁ、少なくともヤマトタケルの時代から歴史と文化のある所だからねぇ。 #愛知県 #名古屋 #地名
返信先:@moon_koma3横から失礼致します。 当時の大王の即位の年齢は40歳以上で、兄弟継承でしたから天武天皇の即位は既定路線かと。大友皇子の母親は身分の低い卑母でしたから、そもそも群臣から即位の賛同は得られないかと思います。母親が皇族か蘇我氏のような特定氏族でないと即位は無理ですね。
返信先:@Leyzakura横から失礼致します。 当時の大王の即位の年齢は40歳以上で、兄弟継承でしたから天武天皇の即位は既定路線かと。大友皇子の母親は身分の低い卑母でしたから、そもそも群臣から即位の賛同は得られないかと思います。母親が皇族か蘇我氏のような特定氏族でないと即位は無理ですね。
返信先:@makimurahirosi🟥天智・天武天皇の関係❓ 40代「天武天皇」(てんむてんのう) 38代「天智天皇」(てんじてんのう)の弟 天智天皇が崩御後、次の皇位を巡って甥の「大友皇子」(おおとものみこ)と対立 日本を二分した「壬申の乱」(じんしんのらん)で勝利し、天皇即位 pref.nara.jp/miryoku/ikasu-… pic.twitter.com/Vi4AgGWYAT
《10/ミリシア》(37) …藤原氏がスタートする事になります。 その… 天智天皇が崩御すると… 〈壬申の乱〉が勃発し、天武天皇が即位して、日本の国造りが始まります。 あ… 近年/明治時代の1870年に… 122代/明治天皇が…天智天皇の実子/大友皇子に、漢風諡号の弘文天皇を贈り…彼が正式に…
壬申の乱で活躍した高市皇子の、壬申の乱で敗死した大友皇子后の十市皇女への挽歌。この挽歌群からロミジュリ的な説が生まれる 高市の挽歌、発想もよいし、人柄出ているし。ほぼ最高権力者まで登りつめてるし。当時の人物で一番好人物だと思う
返信先:@offoffufufuやっぱり思考止まるよね笑。弟の妻を奪うのはともかく自分の妻をないがしろにするのも想像つかないよね。観てみたいなーー…見れないけど!あ、有間皇子はまひろくんで、まのくんは大友皇子だよ。まのくん可愛かった!今なら誰だろうね…この辺りの役の適任はたくさんいる気がする。見れないんだけど。
コフラー活動その5 【天武天皇陵・持統天皇陵】 持統天皇は天武天皇の正妻で、天武天皇の兄である天智天皇の皇女。壬申の乱で天武天皇に敗れた大友皇子の妹。 斉明天皇からのこの時期、皇位の争いが血生臭い感じが強くエピソードにインパクトがある。 pic.twitter.com/HEcvzpgSPl
『天皇』の代数は時代によって異なる。南朝を正統とし、大友皇子を弘文天皇、淡路廃帝を淳仁天皇、九条廃帝を仲恭天皇としたのは明治時代になってからである。また、南朝の寛成親王を長慶天皇としたのは大正時代である。逆に大正15年までは、神功皇后は天皇とされていたが外されてしまった。
誰々が座った石とか何かを掛けた木とか、ほぼ信じてはおりませんが(伝承を全部信じていたら大友皇子は10回ぐらい各地で死んでいるので)、そこにあるそれにそんな伝承が付いた経緯というのは考えると面白いですよね。それはその地域のその人物への思入れでもあるし。