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《ブログ更新のお知らせ》 高雄の旅第一弾、「高雄発祥の地」である哈瑪星地区の、意外な人物を絡めた略史を。我がブログの、やっと垢名らしくなってきた《台湾歴史紀行》のはじまりはじまり〜 #台湾史 taiwanhistoryjp.com/taiwanhistory-…
旧日本海軍が作ったトーチカが台湾にはまだ綺麗な形で残っているのだが、80年経ってすっから鳥の巣になっている模様。 なお、ここはGoogleマップにもたぶん載っていない穴場戦争遺産。私も現地入りして初めて知ったし。 #台湾史 #戦争遺跡 #高雄漫遊記2024 pic.twitter.com/7YtnAxlY8a
この高雄浜線(哈瑪星)の絵葉書の元、元高雄神社⛩️(今忠烈廟)から撮ったものだろうなー。 似たような場所から撮ってみた。角度が違ったので見栄えは違うっぽいが、海とその向こうの島(海岸線)の輪郭に面影があるはずである。 #台湾史 pic.twitter.com/7h93fA61Qt
高雄に残る旧日本海軍士官住宅の中で、いちばん日式を感じたのは「玄関」。日本人には当たり前すぎて何が日式なのかわからんくらいだろうが、靴を脱いで家にあがる、そして玄関が一つの空間になっているのがTHE日本。 #台湾史 #日式建築 #高雄漫遊記2024 pic.twitter.com/NtB7IcieP7
帝国海軍士官用住宅は戦後、中国から逃げてきた中華民国軍人の邸宅として再利用され、「眷村」(けんそん)として新たな観光地になっている。 うち、保存状態が良かったものは偉いさんの邸宅として使われていたのだが、中身を見るとなるほど家の構造は戦前の日式だわと。日本人だからピンとくる。…
この左営の高雄警備府は、かの特攻兵器「震洋」の拠点でもあり、震洋専用部隊の駐屯地もあった。その跡には「震洋神社⛩️」もあったのだが、敗戦によるどさくさに壊され、その後中国人の眷村となりあやふやになっていた。 最近、眷村が廃村になり考古学調査が行われ神社の遺物が発見された。 #台湾史 pic.twitter.com/ftRZAm0CRZ
旧高雄駅。今の高雄駅とは全然違う場所にあるが、現在に至る高雄の近代史、台湾南部の要港としての高雄の原点と言っても過言ではない。 高雄港への路線は現在は廃線になっているが、廃線跡が線路を残したまま公園として整備されている。鉄道好きなら台湾鉄道史の現物が残っていて面白いだろう。#台湾史 pic.twitter.com/5AKsyRmywO
「大東亜戦争完遂の…」 (最後の一文字読めず) 前に「大東亜戦争」と書いて処分されたことがあっけど、大東亜戦争で合ってるのよ。高雄ではそう書いてあるw #台湾史 #高雄漫遊記2024 pic.twitter.com/rorWzMlHwy
わざわざ海軍基地に突撃したのは、「左営軍区故事館」へ行くため。ここは海軍の歴史の資料館で、やる気のなさそうな海軍のおねーさんがドアを開けて歡迎光臨してくれる。日本時代の高雄警備府の紹介もあるが…日據時代か…まあ「中華民国」だから許容しよう。#高雄漫遊記2024 #台湾史 pic.twitter.com/4IF21kjwdd
台北帝国大学予科の学生たち。予科は今の学制では「付属高校」と言ってよい。 帝大内にあった予科校舎が1943年に士林に移った後のもので、事実上2年しか稼働しなかったキャンパス。 予科の跡地は現在国民党が接収し、現在でも立ち入り禁止。 (『白線帽の青春 西日本編』より) #台湾史 pic.twitter.com/6aW4GrXTdA
1972年、アメリカ人旅行者撮影の台湾(たぶん高雄)の子供たち。 この写真から52年経っているので、もしかして私の台湾人フォロワーさんの親世代の年齢になっているかも。 #台湾史 pic.twitter.com/VseU4XNrwK
日本時代の台湾。高雄港と港へ伸びる線路、そして旧高雄駅。この部分は現在、台湾鉄道記念館になってます。そして、船が岸壁に着こうとする岸の倉庫…ここが1週間後に宿泊するホテルになります。 #台湾史 pic.twitter.com/GZd0uwzGii
「228事件」と言うけれども、やり口、人数共に十分「虐殺」である。よって「台湾大虐殺」と改名すべき案件。 中国人の癖: ・自分が被害者:数を盛った上で「虐殺」とか大袈裟に触れ回る ・自分が加害者:数を曖昧にした上で「事件」と矮小化する 後者は228”事件”、天安門”事件”が代表。#台湾史
2・28事件77年を前に台北でデモ 新国会に移行期正義の充実など訴える/台湾 japan.focustaiwan.tw/society/202402… 複数の民間団体が共同で主催した。主催者によれば、活動は87年に人権派弁護士の李勝雄氏や民主運動家の鄭南榕氏らが行ったデモ行進を復刻したもので、今回で8回目。
台北市の北部は言わずと知れた温泉郷だが、北投温泉は早くから温泉好き日本人によって開発され、領有翌年の1896年には早くも温泉宿ができている。 古代ローマ浴場を彷彿とさせる公共浴場は1931年に建てられ、浴場としての機能はなくなったものの建物は現存する。 #台湾史 pic.twitter.com/EYEhaIYobj
今の日本の自治体に市章があるように、日本時代の台湾にもそれぞれに市章・町章があった。 個人的には基隆が好きなのだが、あなたはどれがお好き? #台湾史 pic.twitter.com/cpgdBwI1gv
昨日は台湾に一時帰国中の杜祖健博士にお時間をいただきました。今回は終戦前後、国民党内に入り込んだ共産党のスパイとその摘発劇についてお話をうかがいました。#杜祖健 #台湾史 #アンソニートゥー pic.twitter.com/J4fiNxkCgt
1920年代の建功神社の社殿。台北にあった神社で社殿の中央のドームが特徴的でした。神社とは思えない神社建築です。戦後にかなり中華チックになりほとんど面影はないものの、建物自体は現存しています。 #台湾史 pic.twitter.com/01Bezp8Fou
FBより。日本統治時代と現在(右下)の市章の比較ですが、台中市だけ全く変わっていません。戦後の戒厳令時代に、よくバレなかったなと思ったりします。 #台湾史 pic.twitter.com/bHc2OD6ND3
広告の左下にある「茶代女中心附」は今でいうチップ。日本はチップがないのではなく「なくなった」が正解。江戸時代からの習慣だったが、昭和に入り日本旅行協会(現JTB)が旗を振り、「うちは茶代不要です」を売りにした旅館が出現した。ここもそのうちの一つだったのだろう。 #日本近代史 #台湾史 pic.twitter.com/2vwQ6FpfJr
1927年『台湾鉄道旅行案内』(総督府交通部刊)記載の、基隆駅と高雄駅の取扱主要貨物ですが、主要港でもあったので、「發送」を輸入、「到着」を輸出と見れば1920年代後半の台湾の輸出・輸入物がわかります。砂糖はまあそうだろなだけれど、石炭の「輸出」の多さは意外だった。#台湾史 pic.twitter.com/hLjOpdf2mO