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靖国丸が帰国した1939年10月18日。米国初上陸した野上彌生子は10:00、 Metropolitan 博物館見学にいった。朝からつめかける人々の姿や、労働者階級の青年までいたことに 日本帝国との文化の爛熟度のちがいを感じる。10月20日には、湯川秀樹もおとずれた Columbia 大学を訪問した #大脱出1939 1080 pic.twitter.com/eB1nAFjhrp

迫間健司@hazamakenj1

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日本帝国の「原爆」開発の陸海両計画について詳述する余白はないが、仁科芳雄は実現可能とは考えていなかった。そもそも芳雄は、原子炉の暴走状態こそが核爆発だと誤認している。物理学があきらかにしたように、原爆で発電はできないし、原子炉が核爆発することも絶対にありえない #大脱出1939 1079.2

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のちに 仁科芳雄は 日本帝国での Uranium 原子核分裂爆弾開発の責任者となる――陸軍主導の「ニ号研究」(〇かたかなのニ ×漢数字の二)。湯川秀樹も参画した海軍主導のものは「F研究」とよばれた――が、朝永振一郎をその任につけることはなかった。 #大脱出1939 0070

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仁科芳雄が異色の物理学者だったことは語ったが、学部生として電気工学を専攻し、院で電気炉を専門とした。理論屋ではなく生粋の実験屋だったのである。しかも、当時最新の器具や装置はすべて米国製。芳雄の焦りが、理論屋の朝永振一郎には真に理解できていなかったのかもしれない #大脱出1939 1079.1 pic.twitter.com/w82Ll4RzAs

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仁科芳雄は1890年12月6日 岡山県生まれ。第六高等学校をへて東京帝国大学を卒業するが、理学部ではない。工科大学(工学部)電気工学科を首席で卒業した異色の経歴である。1921年 欧州留学し1928年まで世界の物理学の最前線にいて帰国 理研にはいり日本一の物理学者となっていた。 #大脱出1939 0052.1

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翌1939年10月18日早朝04:30。朝永振一郎や訪欧陸上選手団らをのせた靖国丸が ようやく横浜に入港、帰国した。が、USA に立ちよったにもかかわらず、下船せず米国の最新物理学事情を視察しなかった振一郎は、恩師で理化学研究所 主任研究員 仁科芳雄からこっぴどく叱責されるのである #大脱出1939 1079 pic.twitter.com/gSFCRJPHwt

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前田陽一『西歐に學んで』(1944年8月の記述) ヴァイオリンのS孃も、妻と子供達が急に一緒に發つことになったのを知って、荷造や子供の世話に貴重な時間を割いて下さった。その晩のうちに連合軍が入城したらどうしようという相談迄行われる程に急迫した事態であった。 #大脱出1939 1078.5 pic.twitter.com/FOX1ScFjpN

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前田陽一の1944年避難行は 先述の『西歐に學んで』に描かれているが、すでに語った Violinist の女や その支援をしていた朝永振一郎と Leipzig で同宿だった外交官の男も登場する。「S嬢」こと諏訪根自子と、のちに夫となる大賀小四郎のふたりだが、詳細は原著にゆずる #大脱出1939 1078.4

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天才美人 violinist ともてはやされた諏訪根自子が、欧州で大賀小四郎と恋におち のちに結婚することになったり、独啓蒙宣伝省大臣 JosephGebbels から由来にいわくつきの Stradivarius を贈られたりとさまざま逸話があるが、これらもやはり別の話なので 詳述しない。 #大脱出1939 0332

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野上夫婦と交流した前田多門の長男 前田陽一も、戦後の業績によって知られているだろうか。東大教授として不破哲三や大江健三郎の仏語の師で、明仁にも仏語を教えた。大戦勃発後も駐仏日本大使館に残り、1944年日本人の避難に尽力する。Paris 陥落が迫り Berlin に避難しようと #大脱出1939 1078.3 pic.twitter.com/KfyOjKrIHb

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あるいは 前田多門が知られているのは、その娘の存在によるのかもしれない。美智子との交流で知られることになる多門の長女の名を、神谷美恵子という。前田陽一はその兄である。おそらく、『生きがいについて』(みすず書房)1966 がもっとも知られた著作だろう #大脱出1939 1078.2 pic.twitter.com/FKllHnLlTm

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前田多門はこのとき55歳。その名が知られているのは、戦後初の文部大臣に就任したことによるだろうか。東久邇稔彦と幣原喜重郎の両内閣でその任につく。野上彌生子と豊一郎にとっては、旧知の仲だった。年齢的には彌生子より1歳年長、東京帝国大学で同窓の豊一郎より 1歳年少である #大脱出1939 1078.1

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1939年10月17日。野上彌生子は、Paris で交流した外交官 前田陽一の父のもとを訪れた。陽一と交流したのはその男と懇意だったからで、男は NY の日本文化会館の館長で日本人会の会長もしていた。男の名を 前田多門(画)という。彌生子は10月17日に会い、在米日本人との交流をはじめた #大脱出1939 1078 pic.twitter.com/Vqq2VzVrtg

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野上彌生子の夫 野上豊一郎や、TV 技術者 高柳健次郎も取材を受けたが、この日は日本帝国では10月17日。神嘗祭取材で記者が出払っていた。国際電話の相手が留守居記者で気が利かず、要領を得ないものだったようだ。彌生子らは 健次郎とともに HotelNewYorker(画)に投宿した #大脱出1939 1077.3 pic.twitter.com/WBe0miMFah

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野上彌生子談 (略)今着いたところです、リヴァプール碇泊中私達は特別の許可を得てあきらめてゐたロンドンへもう一度帰つて見ることが出来ました、開戦と共に火の雨が降ると思はれたのが、幸にも外れたので、一時は大変緊張してゐた空気も少しは緩和されてゐたやうでした #大脱出1939 1077.2 pic.twitter.com/WnlqH0azEC

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1939年10月16日11:30。凪いだ穏やかな天候のもと、野上彌生子らを乗せた鹿島丸が NewYork に着いた。彌生子は著名な作家のため、各種活字媒体の記者から取材をうけている。東京朝日新聞社 東京日日新聞社 同盟通信社などで、朝日からは さらに国際電話取材もうけた(次項) #大脱出1939 1077.1 pic.twitter.com/u1Zu7LXy4g

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1939年10月13日正午。鎌倉丸が SanFrancisco を発ち、太平洋へと滑りだした。その3日後の10月16日11:30(日本時間17日01:30)、逆に NewYork に到着した船がある。野上彌生子や豊一郎、高柳健次郎 菊池一雄 宮本三郎 中村光夫 石田英一郎ら 仏を脱出した避難者をのせた鹿島丸だった #大脱出1939 1077 pic.twitter.com/QSVBq5CSqB

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湯川秀樹が乗ったのは日本郵船の鎌倉丸(画。秩父丸を改称)である。北米大陸を横断した谷口吉郎と遠城寺宗徳も乗船した。NSDAP 大会参加を断念した東京瓦斯社長 井坂孝や東京女子医学専門学校長 吉岡彌生もいる。また、社会大衆党の代議士 浅沼稲次郎もこの船の客となっていた #大脱出1939 1076 pic.twitter.com/JiIExpwehN

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この時点で、湯川秀樹も JuliusRobertOppenheimer も日米両国が戦争に突入することを知らない(画は戦後)。もちろん、両者が日米で原子核分裂爆弾の開発に携わることなど 思いもよらない。秀樹は20世紀のうちに「原爆」が完成されるはずがないと確信していた。それに対し Robert は #大脱出1939 1075.1 pic.twitter.com/FohN921kqn

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1939年10月13日。全米各大学で歓待され、中間子の提唱者として講演をしながら 北米大陸を横断して西海岸に到着した湯川秀樹が、帰国のため船に乗った。のちに自身を招聘する JuliusRobertOppenheimer とも、10月9日に California 大学 Berkeley 校で会って以降 何度も面会している #大脱出1939 1075

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「原爆の子の像」が建てられる10年前の1948年9月1日、41歳の湯川秀樹は 羽田空港から PanAmerican 機 Clipper 号で渡米した。 USA の物理学者 JuliusRobertOppenheimer に推薦され、 Princeton 高等学術研究所の客員教授として招聘されたのである。 #大脱出1939 0023

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ちなみに、これがニッポン号の航路表(画:国立国会図書館)だが、10月7日に 実際は Bucharest(Romania) に立ち寄っている。大毎特派員の前芝確三は、自社機の旅程を知ることのできる立場にいた。機長 中尾純利以下、乗員らや親善使節とともに帰国すべく羽田をめざす #大脱出1939 1074.2 pic.twitter.com/JNKCYffv3J

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すでに語ったように、ニッポン号が羽田を発ったのが 第2次欧州大戦開戦前の1939年8月26日。世界一周して羽田に帰り着くのが 2週間後の1939年10月20日である。10月7日の Bucharest 寄港は航路表にも載っていないうえ、前芝確三が搭乗したことも ほとんど知られていない #大脱出1939 1074.1

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そのころ。靖国丸が Hamburg を出港したのとおなじ1939年8月26日。日本帝国から大阪毎日新聞社と東京日日新聞社による航空機「ニッポン号」が羽田を発った(画)。2年前の1937年5月21日、朝永振一郎の在独中に大阪朝日新聞社の純国産航空機「神風号」が2度目の訪欧飛行に成功している。 #大脱出1939 0774

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1939年10月7日、世界一周飛行の大毎ニッポン号が Bucharest に立ちよった。このとき、予定外の客として乗りこんだ男がいた。大毎特派員の前芝確三である。靖国丸で来欧し、 Warszawa 日本大使館に籠城し、Poland 取材後に避難した確三は、自社ニッポン号に便乗し帰国するのである #大脱出1939 1074

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当時、新聞紙の売りあげ促進の宣伝として、新聞社による航空機の航続距離競争が さかんにおこなわれていた。大毎と日日の「ニッポン号」は世界一周するのが目的で、炎上寸前の欧州情勢など予測しえず もともと組まれていた予定どおり 欧州にも立ちよることになっていた。 #大脱出1939 0775

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鹿島丸に乗ったのは、日本放送協会技研第3部長 高柳健次郎と朝日新聞 Warszawa 特派員 河野健治らである。健次郎は 東京五輪で TV 放送を実現すべく尽力したが、返上後 英米独視察にきて戦争勃発、英から避難した。健治は、WashingtonDC 特派員を命じられて訪米の途次である #大脱出1939 1073.1

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おなじ1939年7月5日、高嶋泰二は Berlin 大学の外国語学校聴講生になった。婦人倶楽部へゆくと前日着いたばかりの吉岡彌生がいて、再会を祝した。翌7月6日、日本帝国では日本放送協会の放送技術研究所第3部長、高柳健次郎(画 40歳)がTV視察のため欧米にむけて出発している。 #大脱出1939 0537

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1939年10月5日。野上彌生子は夫 豊一郎や香月保の家族とともに、ほか数十名の日本人と一緒に London を発ち、15:00ごろ再び Liverpool に着いた。鹿島丸の出港予定時刻は 17:00 だったが、風雨が激しくなってくる。このとき、あらたに乗船して帰国の途についた日本人がいた #大脱出1939 1073 pic.twitter.com/96a6ns5icj

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1939年10月3日 London。野上彌生子と豊一郎に電話があった。英議会を見学できる切符が入手できたというのである。Tube で Strand 街 にでたふたりは、CharingCross まで歩き Taxi で議会に乗りつける。すると英首相 ArthurNevilleChamberlain の演説などを肉眼で見ることができた #大脱出1939 1071.6 pic.twitter.com/R0nPs4T2nI

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1939年10月2日18:50。野上彌生子と豊一郎は、湖水地方から列車で7時間かけて London に帰着した。前回在英時に過ごした家にむかう。2度ともどれない覚悟だったが、彌生子は旧知の日英のひとびとと再会できた。置いてきてしまった日記の整理などをしているうち、ある報せがとどく #大脱出1939 1071.5

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1938年12月26日、英国に到着した野上彌生子と素一は、朝日新聞記者 香月保や豊一郎の住む London 北西部 Hampstead の住宅へとむかった。豊一郎の住まいは緑のおおい坂のうえにあり、5~6軒へだてたところに 保が妻と2男2女の6人で暮らす賃貸住宅があった。 #大脱出1939 0303.1

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1939年10月2日09:30 NY。9月22日に Sweden の Göteborg を発った Gripsholm 号が入港した。このときの記事が『東京日日新聞』10月4日夕刊に掲載されている。先述のように藤原銀次郎、吉岡彌生、浅沼稲次郎、北昤吉ら16人の日本人が乗りこんでいた。高田特派員は高田市太郎だろう #大脱出1939 1072 pic.twitter.com/L4XNHVDjGg

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1939年10月1日。野上彌生子と豊一郎は Liverpool を発ち Windermere 湖にむかった。London 行の前に、自然派詩人 WilliamWordsworth(画)関連の湖水地方観光をしようと思ったのである。London とは逆の北へむかい生家を訪ねるなどし、都会とはちがう田園風景に魅了された #大脱出1939 1071.4 pic.twitter.com/Qtt3uTtpQu

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野上彌生子日記 昨夜ハコネが入港さうな、大角大将らが乗つてゐるので、郵船も領事力ンもさわぎをやつてゐるらしい。バカバカしい事である。 ある集団内での序列が 即座にあらゆる人間関係に反映する「日本人」という集団の薄気味悪さを 彌生子は感受していた #大脱出1939 1071.3 pic.twitter.com/JEz8vdNkoG

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1939年9月28日早朝。仏 Bordeaux を発った鹿島丸が 英 Liverpool に着いた。野上彌生子と豊一郎は下船し、投宿する。9月いっぱい Liverpool で過ごすことになるが 29日に伊へ箱根丸が入港したとの噂がとどく。日本人社会で話題になっていたようで つぎのように書いている #大脱出1939 1071.2 pic.twitter.com/GvAV9g5zBG

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1939年9月27日。鹿島丸が仏領海にでた。航路は秘密だったが、野上彌生子宛に朝日読売両新聞社と『婦人公論』から電報がとどく。戦乱の感想を書いてくれというのだ。読売の依頼は断ったが、朝日用に鹿島丸について1300字の原稿を書く。頭をつかった疲労と船の揺れで吐いてしまった #大脱出1939 1071.1 pic.twitter.com/cOO6zEDM79

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鹿島丸の避難客142名中、野上彌生子だけが日本帝国の民族衣装 Kimono すがただった。「なぜ日本人で日本服を船でさへ着ないのだらう」と彌生子はしるしている。すでに語ったように、洋装で日本帝国を出発した彌生子だったが、和服を持ちこんでいて たびたび身に着けていた #大脱出1939 1071 pic.twitter.com/gtjVI6WwAx

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野上彌生子にとって、深尾須磨子は fascism を賛美する思想が気にくわないばかりか、男に媚をうる いけすかない女の代表とおもっていた節がある。彌生子は渡欧にあたって髪をばっさりと切りおとし 短髪になっていた。さらに 奇異の目をうけながら欧州の街を着物で闊歩した。 #大脱出1939 0446

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七日に着く筈だつた船がやつと這入つたのが十日すぎで、それから色々面倒な手續をすませて乘つてみると、ドイツ行きの貨物を差押へられたとかで、每日がらがら荷役をやつてゐるだけで、一向船の出さうな氣配はなく、それがやつと一週間ほどですみ出帆の日取りも定まりさうになると #大脱出1939 1070.2

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劇作家 中村光夫は 鹿島丸に乗船して仏脱出する顚末を『佛蘭西紀行集 戰爭まで』(實業之日本社)という著作(画:国立国会図書館)に残している。手紙の体裁で、10月になって落ちついてから書いたもので 詳細な記録ではないが、鹿島丸のもたつきぶりがよくわかるので掲げておく #大脱出1939 1070.1 pic.twitter.com/dtHNMMdzW0

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1939年9月25日17:00 Bordeaux。ようやく鹿島丸が出港した。乗客180名中、日本人は142名。野上彌生子と豊一郎のほか、彫刻家 菊池一雄、画家 宮本三郎(画右)、劇作家 中村光夫(画左)、報知新聞特派員 小松清の妻 ふみ子、文化人類学者 石田英一郎と妻 布佐子などが乗りこんでいる #大脱出1939 1070 pic.twitter.com/NjEH7MJhnN

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1939年9月24日 NY。湯川秀樹は遠城寺宗徳らと万博見物にでかけた。観光 Bus で敷地を1周して昼食を摂ったあと、英館 伊館 波館 日本館などを見学する。ところが、ひとりで会場をめぐった秀樹は、宗徳と約したはずの集合場所ではぐれてしまう。結局、秀樹は1人で帰宿するはめになり #大脱出1939 1069 pic.twitter.com/q7Ltl5wNXh

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森では鳥がないている。セミの声が、タぐれちかくなるにつれしきりにする。あたりがくらくなって、ガツン湖の島々がかげのように白い水面に点々として、方々、湖の四方の森の間に白くもが低迷している。 #大脱出1939 1068.3

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朝、港にいるとき猛烈な雨で、かみなりがおち、港の一面雨しぶきで、もやいだ船もランチも一色にかすんでしまったあとであるから、木々はしめって、岸の赤土は、おり立てば足がすっかり冷たくぬれそうな草をひたしながら、小さい流れがいたるところ運河にそそぎこんでいる。 #大脱出1939 1068.2 pic.twitter.com/UWVftv0SNt

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朝永振一郎日記 パナマを通った。長い間海ばかり見ていたのが青々とした亜熱帯の木立や島や潮や、水浴する人々などをみて、いきかえる気もちがする。夕方五時ごろから運河に入る。両岸の森は日本を思わせるように青々としている。ただヤシの木がその間々にはえているのは熱帯的だ #大脱出1939 1068.1 pic.twitter.com/YzjQEkcGQz

迫間健司@hazamakenj1

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1939年9月24日。朝永振一郎らの乗った靖国丸が、Panama 運河を通過した。朝、猛烈に降った雨がやんで 17:00ごろ運河に進入する。変わりばえのない大海原の光景に厭きていた振一郎は、亜熱帯の自然の光景や人々の姿が新鮮だった。そのようすを詳細に描写している #大脱出1939 1068 pic.twitter.com/fVSohQjjag

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また、北欧にいた浅沼稲次郎や北昤吉ら代議士が Sweden 船で避難したと語ったが、それがこの Gripsholm 号なのである。北米の地に降りたったかれらは、観光などをしながら大陸を横断し、それぞれ別の船で帰国することになるが、のちに語ることにする #大脱出1939 1067.1 pic.twitter.com/6n4heHPOoE

迫間健司@hazamakenj1

衆議院議員 浅沼稲次郎と船田中 北昤吉らは、9月21日まで北欧に滞在、22日に Sweden 船に乗りこみ USA 経由で横浜に帰りつく。詳細は語らないが、談話を紹介しておく。まずは 浅沼稲次郎「動亂の歐洲を廻りて」。先述の『実業之世界』1939年12月号(国立国会図書館)に載っている #大脱出1939 1022.19

迫間健司@hazamakenj1

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1939年9月22日。16名の日本人をのせて Sweden の Göteborg を出港した船があった。瑞-米線の Gripsholm 号(画)である。乗船客には、東京女子医学専校学校長の吉岡彌生や王子製紙会長の藤原銀次郎らがいた。彌生と銀次郎は、戦争勃発により Sweden に避難し同船したのである #大脱出1939 1067 pic.twitter.com/7YjFYEvfCK

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