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#更科源藏の生涯 14 源藏は1983年から自伝的小説・原野シリーズを刊行する。だがこの時『アイヌ民族誌』(第一法規、1969)に関し裁判となっていた。源藏は1985年に脳梗塞のため息を引き取るが裁判は高倉新一郎が引継ぎ和解が成立。原野シリーズは原稿が完成していたため刊行が続き1987年に完結した。 pic.twitter.com/B4molDEUwc

弟子屈町ふるさと歴史館@furureki

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#更科源藏の生涯 13 1966年源藏は「北海道文学展」を開催。これが1967年北海道文学館へ発展し源藏は初代理事長に就任した。同年に第18回NHK放送文化賞、北海学園大学アイヌ学講座教授就任、1968年第22回北海道新聞文化賞社会文化賞、1977年札幌市芸術文化功労者表彰など源藏は社会的栄誉を得た。 pic.twitter.com/c5BiJIHwNX

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#更科源藏の生涯 12 1950年更科源藏は北海道立図書館およびNHK札幌放送局の嘱託となる。高倉新一郎の好意を受け文化調査で各地のコタンを渡り歩き、その研究が評価されて翌年に第3回北海道文化賞を受賞した。その後、源藏は第三詩集『無明』を発行、自治体史やアイヌ書籍など多くの著作を記した。 pic.twitter.com/wS21FWYXKO

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#更科源藏の生涯 11 1946年源藏は版画家川上澄生の義妹を後妻にむかえる。47年には母ヨリを亡くすが、出版社青磁社に勤め、48年に長男光が、49年には次男順が誕生した。またこの年源藏は『弟子屈町史』を、次いで川上澄生と組んで『北海道絵本』を刊行している。 pic.twitter.com/1EcntHWJ3g

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#更科源藏の生涯 10 北大嘱託を辞した源藏は北海道農会に職を得る。1943年には北海道牛羊畜産組合連合会の主事となり畜産史の編集を担う。この年、戦争詩を入れた第二詩集『凍原の歌』を刊行。このため終戦後に戦争協力者として批判をされるが詩誌『野性』の巻頭言で反省と新たな決意を述べている。 pic.twitter.com/Xx3BAGHQRN

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#更科源藏の生涯 9 札幌に出た源藏はSK写真工房に勤めるも辞職、高倉新一郎の世話で北大嘱託となるも退職し『北方文藝』の編集に携わる。この時源藏は、屈斜路コタン居住時に得た知識をもとに『コタン生物記』を刊行した。(のち『コタン生物記』は完全版三巻本として1976年に発行を開始する) pic.twitter.com/DmzZBKyQXd

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#更科源藏の生涯 8 1931年源藏は中嶋はなゑと結婚したが皇国史観に反発し代用教員を解かれた。兄勝治の下へ身を寄せた後コタンで木彫りを始めるも生計成り立たず、市街地で印刷屋を始めるが左派弾圧を受ける。牛飼いとして再出発しようとしたところ1939年に妻を亡くして失意に駆られ翌年札幌へ転出した pic.twitter.com/HYPgJG7aI7

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#更科源藏の生涯 7 1929年南弟子屈の特別教授場が小学校に昇格、元々いた教員が資格講習を受けるので源藏は代用教員となった。この時釧網線が弟子屈まで達し源藏は詩の題材としている。1930年詩誌『北緯五十度』を創刊した源藏は屈斜路コタンの代用教員となる。この年には第一詩集『種薯』も刊行された pic.twitter.com/qDQGCe3y9W

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#更科源藏の生涯 6 1926年源藏は小田切栄三郎の庇護を受け北大畜産教室で製革技術を学ぶ。鐺別温泉の小田切邸に居住し製革の仕事を1928年まで続けた。この間も源藏は各地を渡って文学活動を続け『港街』(改題して『至上律』)を刊行したり東京の本郷の高村光太郎のアトリエを訪れたりするなどした。 pic.twitter.com/JRSfCLVRfV

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#更科源藏の生涯 5 退学後の源藏は養羊を始めるが越冬で失敗。1924年の兵隊検査では長髪で臨んで丙種となりその足で上京した。源藏は江渡狄嶺の紹介で尾崎喜八と出会う。だが仕事は失敗し再び帰郷し虹別鮭鱒孵化場の臨時雇いとなった。だが尾崎の指導は続き1925年に『抒情詩』の新人4位に入選する。 pic.twitter.com/Mizz4ywBqw

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#更科源藏の生涯 4 1921年源藏は麻布獣医畜産学校に入学。夏休みの帰省中に幼くして死んだ姉ミヨの墓参をし百日草を見て初めて詩を綴る。翌年結核により休学するが療養中に同人誌『リリー』を刊行し上記の詩を載せた。1923年源藏は復学するも留年で勉学意欲が衰え解剖用家畜の扱いにも反発し退学した。 pic.twitter.com/QCKYfX2OBg

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#更科源藏の生涯 3 大正8年(1919)3月源藏は弟子屈小学校補習科を終える。源藏の父・治郎は御料局所長小田切栄三郎と関係があったので源藏は御料局へ誘われた。源藏は職員ではなく自ら小使いを選び国民中学講義録で勉学を続けた。この時郵便局員岡本清一と知り合い文学的な刺激を受けた。 pic.twitter.com/DmzYChsQZI

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#更科源藏の生涯 2 明治43年(1910)源藏は学齢期になったが弟子屈小学校までの片道8kmは子どもの足では遠かった。そのため長姉テリの嫁ぎ先にある北見小清水教育所に入学した。だが源藏は馴染むことができず1週間で弟子屈に戻った。弟子屈小学校に通えるようになったのは数え年9歳であった。 pic.twitter.com/Q6EeDb5buM

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#更科源藏の生涯 1 更科源藏は明治37年(1904)1月27日に弟子屈村字熊牛原野31線西1番地で生を受けた。出生届は吹雪により提出が遅れ戸籍では2月15日になっている。父・更科治郎と母・ヨリは新潟県から移住した開拓農家で源藏には3人の兄と5人の姉がおり、9人兄弟の末っ子であった。 pic.twitter.com/xkzx5GgMhD

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