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フラッシュバックがなくなるのが必ずしも「治る」のではなく、それが起きてもなお、それだけで言い尽くされるはずのない自分がちゃんといることを認める。(p204)#読も山 pic.twitter.com/x4F4BGqZYl
私たちは自らの力を信じるより、抑制に投資しているということだ。私が私であることを認めない。自分が何かをなし得ないと思い込み、それを確認したとき「ほら、やっぱり」と断念と共に安堵する。(p140)#読も山 pic.twitter.com/QWf9FVaX4r
意味は「言っていること」であり、意味以前の心中に鳴り響く音は「言わんとしていること」。このふたつの違いに明敏であるには、意識的「集中」の聞き方では追いつけない。そして、これらの違いは、音のズレとして私には聞こえてくる。(p22)#読も山 pic.twitter.com/yB2zO9eqz0
「芸術的形式」に準じた作品を成立させているという前提のもとで、芸術家は特異な選択眼を持つ主体として特権化されることとなるのだ。そして(略)抽出された無邪気さや幼稚さは、世界を無垢で新鮮な見方で切り取るための積極的な特性として読み替えられるであろう。(p164)#読も山 pic.twitter.com/bNHZAF9Py7
レディメイドが「これは芸術である」という判断と命名の問題である以上、誰しもがすでに常に芸術家である。この条件のもとでは、作者と観者は時間的な前後関係を別にすれば、等しい権利を有した存在となる。(p147)#読も山 pic.twitter.com/GE3P42GkyE
ベイトソン:あなたがおっしゃっていることは、芸術家は絵画がそれ自身を描かせる絵画の通路だということですね。(…)しかしそれは、ある意味、芸術作品はそれがカンヴァスにのる前に存在している、ということを含みます。 デュシャン:はい。それは引っ張り出されるのです。 (p53-54)#読も山 pic.twitter.com/PJEAiE6CGi
たとえばある小説を読みながら「この小説はゆっくり読まなきゃいけないな。」と思ったり、「この小説は筋を追えば終わりってものじゃないな。」と思ったりするとき、それを思ったのは自分だとふつう読者は思っているのだが、それを読者が思うように小説にはすでにそう書かれている。(p468)#読も山 pic.twitter.com/UtdH0K9m2P
私は人間を外からーーその人に先行する諸々の基準によって判断するという風にーー鳥瞰図的に捉えるのではなく、当事者と同じ時間を生きること、その外に出ようとしないことの圧倒的な価値をさっきから言っている。(p380)#読も山 pic.twitter.com/2hHTF9kQqX
セミの長い地中生活もヒマワリの大きな花も、すべて生命として生存するために行き着いた形態だ。その形態によって世界と接し、生きて子孫を残すための工夫をする。つまりその工夫こそが生命それぞれの”思考”なのだ。(p343)#読も山 pic.twitter.com/dtJBWvtb8Y
われわれにとっては、「213-57=166」は「誤った引き算」である。そして「誤った引き算」とは、「引き算のつもりなのだが、引き算ではない」というものにほかならない。すなわちそれは、「引き算ではないものを引き算〈として〉為してしまった」ということなのである。(p317)#読も山 pic.twitter.com/IY1DFG8yqJ