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告知が遅れ申し訳ございません。土曜ヘーゲル講義に若干名の追加募集を行います。6/8(土)から4週連続で『精神現象学』がテキストとなります。申込みは先着順となりますがご了承くださいませ。講義の詳細はこの投稿のスレッドをご確認ください。応募はこちらから ⇒forms.gle/YkvDFM2vCwGbKS…
ヘーゲルの「精神哲学」(岩波文庫)と「小論理学」(岩波文庫)が大好きだが精神現象学は分かりづらい。「歴史哲学」は学生のころ読んで感心した。再読したいし、もっとヘーゲルを読んでゆきたいが、部活で疲れていて読めない。
『精神現象学』で「今」を唐突に出して、それをなんとも疑問にも思わないのは、ヘーゲルらしい。ある意味では、ヘーゲルは、その哲学の形式ゆえに「疑問にすることができなかった」とも言えようか?(にしてももう少しは驚いてもいい気がする)
普通に考えて「今」の概念ってどっから出てきてるんだ?そして僕は小さい時から「いつか死ぬこと」に毎晩恐怖していたが(今もしている)、なんで「死」なるものを知っているんだ?どうやってそんなものを知るのか?
それに加え、その先生に「学費の元を以上に勉強した」ともいわれた(笑)。バトラーの博論『欲望の主体』とフレンチスタディーズ、ジャン・イポリットの『ヘーゲル精神現象学』の話題を振り意見をいただいたのも思い出した。「拾い読み」でも背景となる基礎知識がもらえたのはかなり大きかったなと……
アレゴリーとは何か、大まかに理解したつもりでいたけど、まだ完璧ではない。脱自と自我の矛盾した語りというところなんだろうけど。ヘーゲル哲学にヒントがありそうだな。精神現象学途中までしか読んでないからちゃんと読んでみるか。
返信先:@n0ne0fMyBusiそうなんですよ! 恐らく彼自身の本意に反しているでしょうけれど、『精神現象学』には観点として魅力的な個別のアイディアがたくさんあります。ヘーゲル「的」に物事を考えてみるのは割と面白いです。雑な仕方でお喋りに哲学を用いるって、本当は褒められたことじゃないでしょうけれど。
『哲学史入門Ⅱ』に、ヘーゲルの『精神現象学』はヘーゲルが正しいと考えてることは書いてないってあって、衝撃を受けている。 間違ってることに自分で気が付いてもらわないと正しいことはわからないから、そのために書いたんだって。 えーーーーーっ!ってなっている。
おはようございます。 ヘーゲル『精神現象学』「序論」の忍耐の話の続きを熊野訳で読む。 精神の諸契機を経巡るのに忍耐が必要と言っても、その忍耐は世界精神と個人とで根本的に違う。 世界精神は現実性を可能性に沈めていく労苦。 個人は即自になったものを対自に転換する労苦。 日本で育ち生活↓
おはようございます。 今朝はヘーゲル『精神現象学』「序文」の「忍耐のなさは不可能を要求する」のくだりを読みました。 参照した熊野訳も参考に掲げさせていただきました。 熊野訳「他とは切りはなされたものとして」の原語はabsolut。私はむしろ、全体と一体のものとしてという趣旨だと考えました。
『完全解読ヘーゲル 『精神現象学』』#講談社選書メチエ ヘーゲルの『精神現象学』など、いきなり読んではいけません。日本語訳されていても、用語や書き方の問題があり理解できません。 こういった解説書を経由しましょう。 amzn.to/3QSwnAS
コジェーヴの名は1933年から1939年の間、高等学術研究院で行われた有名な『精神現象学』についてのセミネールへと結ばれる(そのセミネールは、バタイユと同じくコジェーヴの講義の熱心な聴講者であったクノーによって1947年に『ヘーゲル読解入門』という一冊へとまとめられる)→
ヘーゲル研究 〔ヘーゲルへの興味は、すでに「コントル=アタック」の中核をなしていた。現に《「精神現象学」とマルクス理論の要となるヘーゲルの主と奴の弁証法》が『コントル=アタック手帖』のある号のタイトルであった。→
『精神現象学』の序文をようやく読み終えた。難解難解とみんな脅すけど、普通におもしろかった。もちろんわからないことだらけだけど、そもそも「自分の言いたいことはこうです」みたいな要約的序文は哲学には不要、とヘーゲルは言っていて、この序文を要約できるような仕方でわかることはないのでは?
本日、ヘーゲル『精神現象学』を読む2回目! 本には書き込みしない派だったけど、『精神現象学』に関しては書き込みした方が理解度上がりそうだから書いてしまった✍️ 今夜はどんな内容か、楽しみー! #ヘーゲル #精神現象学 pic.twitter.com/DD51cYapGa
おはようございます。 今朝はヘーゲル『精神現象学』「序文」の「忍耐のなさは不可能を要求する」のくだりを読みました。 参照した熊野訳も参考に掲げさせていただきました。 熊野訳「他とは切りはなされたものとして」の原語はabsolut。私はむしろ、全体と一体のものとしてという趣旨だと考えました。 pic.twitter.com/tMkdTe7f0u
ヘーゲルは『精神現象学』のなかで、人間の精神が自己意識から理性の段階に上昇することを「私は私たちであり、私たちは私である」と形容しました。自意識を経た上で最終的に自意識の檻の外に出るという意味で、ヘーゲルの議論は「まともな大人になるための指南書」と言うことも出来ますね。
自意識の檻から外に出ることは難しい。 子供のころは皆、自分が世界の中心であり、世界はみんな自分に優しくするものだと思い込んでいるので、自分こそが独裁者であるが、それはそれで正しく、その時期を経なければ人はマトモな大人になれない。 しかしそこから出られない大人はただ有害でしかない。
ヘーゲル『精神現象学』「序文」 Die Ungeduld verlangt das Unmögliche, nämlich die Erreichung des Ziels ohne die Mittel. 熊野訳「忍耐力に欠けた者たちは不可能なことを要求して、中間段階を経ずに目標に到達しようとする。」 忍耐力不足のイマイチの人達のことだろうか。↓
21日は「現代を聞く会」に参加。作品社さんのヘーゲル『精神現象学』訳者、長谷川宏さんに大著『日本精神史』にまつわるお話を聞きました。扱うテーマと時間軸が広範なだけに、何を書くか、よりも、何を書かないか、という膨大な知見にもとづく取捨選択のリアルな揺らぎが伺えてとても良かった。
本日5/24(金) 20時 ヘーゲル『精神現象学』を読む 精神現象学は、中島先生が現在扱っている講義の中では(私見では)一番難しいのですが、20人以上の方に毎月参加いただいています。レベルを落とさずにどこまでも噛み砕く中島先生にも舌を巻きますが、毎月着いて行く受講生も本当に凄いなぁと…。
【新着】竹田青嗣,西研著『超解読! はじめてのヘーゲル『法の哲学』』、『超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』』、『完全解読 ヘーゲル『精神現象学』』など哲学関連が複数到着。全て書庫に配架(貸出可能)しておりますので、ご利用の際はOPACから請求記号を参考にお探しください。 #小樽商大 pic.twitter.com/rCx2FozqOQ
「ブッダの"真"の教えは、呪術的・迷信的要素を全く含まない合理的なものだった」とか「空海の思想はヘーゲルの『精神現象学』に匹敵する観念論哲学で、密教の呪術性はその本質ではない」みたいな言説、昔はよく目にしたものでした。
やはり、仏教教理や仏教思想に対する信心や、「覚り」を目指す修行だけで成り立つ“ピュア”な“ほんとうの”仏教などというものがどこかにあるなどと安易に考えない方がいい。 #仏典や仏教書だけを見てロマンを膨らませた近現代人のはかない夢
演習のテキストとして読まざるを得なかったヘーゲル『精神現象学』。多分もう二度とページを開かないと思う。高かったビブリオテーク版も、もう何処にあるか忘れた。多分、処分はしてない。
あまりの分からなさに涙ながらに読んだ哲学の本は、永遠に青春の一頁に輝き続けています。それを繰り返したくて哲学書を開いても、青春を過ぎてしまうと胸が躍ることは減りました。
田端信廣著『ヘーゲル「精神現象学」の建築術』を読んだ。今まであまり読んだことのない解釈でヘーゲルが論じられていて、おもしろかった。哲学だけではなく、法学、社会学など、いろいろな学問からヘーゲルの思想をとらえることができるのだと、この1冊から確信した。
おはようございます。 私見では、ヘーゲルは最初からラインホルトになり切って、書かれざる自問自答を含めて演じているようにと感じます。それは自分自身が迷った道の一つでもある。意識の経験の叙述です。『精神現象学』でも「この箇所はカント批判だ」などと当たり前のように言われますが、↓
おはようございます。 今朝はヘーゲルは休み。 『差異』「根本命題」の最後の段落の手前の短い段落に田端訳は訳注を付けて、ここから終わりまではラインホルトへの批判だと指摘しています(43頁)。ではそれまでの大半は何なのか。そんなことをいったん腹に落としておいて、別の作業をやります。
『精神現象学』の「まえがき」には〝数学の目的ないし本質は「大きさ」である〟という記述がある。たしかに彼がこれを著した19世紀初頭、数学は未だ抽象度の低い領域に留まっていた。だが彼の死後、数学はより抽象度の高い領域へ発展を遂げる。ちなみにヘーゲルは1831年死没、カントールは1845年誕生。
ヘーゲルが『精神現象学』で述べた数学批判は当時の数学に対しては有効だったものの、現代の数学に対しては無効なのではないか。もしこの仮説が正しければ、僕たちは彼の哲学を数学的形式を用いずに記述したヘーゲル自身の選択を擁護しつつ、なおも彼の哲学を数学的形式へ翻訳できるようになるだろう。